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あるぜんちな丸同船者会=ボリビアから入植者11人=田島さんが半世紀を語る=娘殺害の悲劇乗り越え

ニッケイ新聞 2012年5月24日付け

 【既報関連】1962年5月11日にサントス港に到着した「あるぜんちな丸第12航」の乗船者でボリビアのサンファン移住地に入植した人のうち、現在もボリビアに住む人は22人いる。そのうち11人が、12日に聖市であった「着伯50年の集い」に姿を見せた。田島健児さん(78、佐賀)は同移住地について「非常に発展している」と紹介したが、入植当初は家も道もないところだった。「移住者全員が斧一本で作り上げました」と話す田島さんに当時を振り返ってもらった。

 サンファン移住地には1955年、最初に「西川移民」と呼ばれる日本人が入植し、57年頃から移住が本格化。2001年には市に昇格した。
 田島さんによれば、現在移住地に日系人は約900人。70歳以上の一世は100人以上いる。
 壇上に立ち、田島さんは午前中だったにもかかわらず「こんばんは!」と挨拶。「ちょっと暗い雰囲気だったので…」と会場を沸かせた。
 妻の美沙富さん(78、長崎)と2人の子供を連れ、あるぜんちな丸に乗り込んだ。サントス港に着いたあと移住者専用の列車に乗り、10日かけてサンファンに到着。乗客自ら薪を燃やしながら列車を走らせたという。
 入植後11年目、ボリビア人労働者に5歳だった娘を殺害された。田島さん以外にも米を売った帰りに強盗に遭ったり行方不明になったり、一家全員が殺害されたりと暴力事件が相次いで起こった。「安心して暮らせない」と移住者が決起、在サンタクルス日本国領事館に窮状を訴えた。
 そのショックで美沙富さんは精神を病み、心身ともに状態が悪化したため、一度帰国した。
 その後、亜国に移住した息子から呼び寄せられる形で同国へ移り、パタゴニアでリンゴ栽培などを行った。8年過ごしたものの不景気で経済的に成り立たなくなり、98年に再びサンファンへ戻った。
 「移住者仲間にも受け入れてもらえた。もうどこにも行きません」と笑顔を見せる。
 現在は米、大豆、マカダミアナッツ、柑橘類、畜産、養鶏などがさかんで、品質の良い生産物を市場に送り出し、「農業面でボリビア社会にインパクトを与えている」と胸を張る。
 中心は日系人だが近年移住地にはボリビア人も多く、労働問題などトラブルが尽きない。
 田島さんは「将来どうなるかわからないが、二世達は一世の精神を引き継いでいる。だから大丈夫かな」と笑った。

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