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コラム 樹海

ニッケイ新聞 2012年7月13日付け

 「山本には芥川をブラジルに呼んで、広々とした自然、清浄な大気、そして激しい熱帯の太陽の下で、衰弱した芥川の肉体と精神を甦らせるが、初めからの夢であった」と『山本喜誉司評伝』(人文研、81年、18頁)にはある。「芥川」とは龍之介のことで、東京府立三中時代からの親友だった▼月刊『望星』(東海教育研究所、07年8月号)の《特集— 芥川龍之介の「手紙」》には驚くべき内容が書かれている。山本と芥川は一高時代、同性愛にも譬えられそうな熱烈な親交があった。芥川が送った書簡中には「僕は君によりて生き候君と共にするを得べくんば死も亦甘かるべしと存候」(33頁)との言葉まであったという▼山本は「私の死後この書簡類は焼却する」と言い、54年に大宅壮一がサンパウロ市の山本邸を訪れて、書簡を見せてほしいとお願いした時も断った。しかし山本が63年に亡くなった時にはなぜか焼かれず、日本の研究者の問い合わせを受けた遺族が全書簡を送った。次男の山本坦は「父はいつも手紙をやり取りしていたが、母は芥川のことを『頭が切れすぎる人だ』と怖がっていた」と思い出す▼芥川が自殺したのは27年7月、山本が渡伯した翌年だ。もし山本が芥川を当地に呼ぶことに成功していたら、当地を舞台にした傑作をものにしていただろうと想像すると興味深い▼30年に移民船で渡伯した経験を元にした小説『蒼氓』(石川達三)が、35年の第1回芥川賞に輝いたとき、最も喜んだのは天国の芥川だったかもしれない。ある種の奇縁か。芥川が渡伯していれば、そのテーマの本格小説をまっ先に発表したのは彼自身だったかもしれない。(深)

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