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近代芸術週間=聖市から「文化の幕開け」=独立記念日特集…ブラジル歴史物語=90年前に始まった革新運動

ニッケイ新聞 2012年9月7日付け

 今から90年前の1922年2月、「近代芸術週間」(Semana de Arte Moderna、以下セマーナ)と名付けられた画期的な催しがサンパウロ市立劇場を舞台に開催された。後世からは「ブラジルにおける近代主義(Modernismo)の幕開け」と位置付けられており、単なる芸術運動ではなく、政治的、社会的にみても特筆に値する伯国史上重要な出来事といわれる。それまでの国内の芸術の伝統的潮流とは一線を画し、当時の前衛的な知識人や芸術家が新たな美学、表現方法を打ち出そうとした試みだ。開催後はナショナリズムをも視野に入れた文化活動に発展するなど、その後の当国のあらゆる知的活動に革新をもたらした。このようなイベントがなぜ、首都リオではなく一地方都市にすぎなかったサンパウロで起こったか、どのような経緯で開催に至ったのか、どんな内容だったのか、その後どのような影響が生まれたかなどをひも解き、改めてその意義を問い直した。(田中詩穂記者)

A・マルファッチの展覧会とM・ロバートの批判

 近代主義の導火線ともいえる出来事は、1917年12月にあったアニータ・マルファッチが53作品を発表した展覧会だ。アニータはドイツ留学中に「表現主義」に影響を受けた若き女性画家だった。
 モンテイロ・ロバートはエスタード紙上でアニータを酷評、前衛芸術そのものも攻撃的に批判した。「異常で変質」「怪奇的」「偏屈や詐欺の結果」と表現し、これをタイトルにした書籍まで出た。
 伯国における児童文学の創始者的存在で、かつては革新的でもあったが、当時は既に作家として権威を確立していたロバートのこの批評は、少なからず反響を生んだ。既に売れていた絵が返品されるなど、アニータの創作活動は危機的状況にさらされたが、彼女を保護する立場を取ったのがマリオ・デ・アンドラーデ(1893—1945)やオズワルド・デ・アンドラーデ(1890—1954)だ。
 それまでのアカデミックなブラジルの芸術や文学に満足していなかった若手知識人が集まり、ロバートから遠ざかった。そのグループこそが、数年後にセマーナを開催する勢力となった。
 以降グループは頻繁に集まって意見や情報を交換したり、学術主義的な芸術を批判し、革新的な思想を発表したりし始めた。そんな中、「一般市民向けに近代芸術を見せるフェスティバルを開こう」—。そういった考えが生まれるまで、そう時間はかからなかった。
 1922年は国が政治的解放(独立)から百年を迎え、近代化を遂げているというプロパガンダを行うのにふさわしい気運が、コーヒーがもたらした利潤と産業化で栄えつつあったサンパウロで生まれた。ブラジルの近代化の象徴として位置付けるのにはちょうど良い年だと考えられた。
 ヨーロッパに留学した農場主や企業家の子息らがセマーナ開催に理解を示してスポンサーとなり、当時の聖州知事ワシントン・ルイスも協力的な姿勢を見せた。

セマーナは〃スキャンダル〃

 このようにして、マリオ、オズワルドなどがリーダーとなってセマーナが開催されたが、どんな内容だったのか。
 2月13、15、17日の夜。舞台ではマニフェストや詩の朗読、講演、音楽やダンスが発表されたが、そのあまりの新しさ、過激さは観客に多大な衝撃を与え、動揺をあたえた。
 「過去の否定、破壊」「日常の再評価」「ブラジルの現実の再発見」「言語表現の革新、すなわち口語表現の使用」などが全面に打ち出された作品が次々に発表されたが、ブーイングの嵐で、演目のいくつかは混乱のなか中断された。
 詩は韻を踏まず、いわゆる詩的な表現がないうえに社会や文化への批判を含んでいた。マリオは中産階級を批判した詩『ブルジョワを憎め(Ode ao burgues)』を、舞台でジャガイモを投げられながら朗読した。
 簡潔さを追求した文体を確立したマヌエル・バンデイラ作の詩『蛙(Os sapos)』をロナルド・デ・カルバーリョが朗読したとき、観客の不満はピークに達した。高踏派の詩人オラーヴォ・ビラッキを皮肉に表現したもので、「違う! 違う!」と観客から罵声があがる始末だった。
 ホールにはビクトール・ブレシェレ、アニータ、ディ・カヴァルカンチの絵画や彫刻作品が展示されたが、観客は完全に混乱した。カラフルな汚れが飛び散ったもの、緑色の髪の女、おかしなバランスの人物など、それまで観たこともなかった絵ばかりが並んでいたからだ。
 17日夜は、観客はずいぶん減り、本当に関心のある人だけが会場を訪れた。初日から参加し、アフリカのダンスとともにピアノを独奏するなどしてブーイングを受けっぱなしだったエイトール・ヴィラ・ロボスは、この日だけは喝采を受けた。


 珈琲がもたらした前衛表現

セマーナ後の流れと傾向

  そのうちの何人かが近代主義の流れを汲んだ新たな運動を起こした。
 1924年のオズワルドによる「パウ・ブラジル運動」は、国の特色に目を向け、ブラジルを再発見することを提唱したものだ。自由詩や造語を用い、「自由な目で見る」ことをうったえ、心理的な原始主義、すなわち自然のままの状態を評価すべきとした。
 1926年にはこれに対抗して、カシアーノ・リカルド、プリーニオ・サルガード、メノッティ・デル・ピッキアらが率いた原理的なナショナリズム「ヴェルデ・アマレーロ運動」が起きた。真のブラジルのナショナリズムを模索しようという動きだ。
 統合主義に通じるもので、インディオや民俗を再評価し、ヨーロッパのネオファシズムを模範にした強いナショナリズム思想を作ろうとした。
 1928年、これに対してオズワルドは「食人宣言」を出す。「外国の文化は我々の伝統と習慣にしたがって食い尽くされ、新しく作られる」(宣言の中の一文)、すなわち、近代主義の過程においてヨーロッパの文化はそのまま模倣するのではなく、〃飲み込み〃、ブラジル独自の芸術の形として〃消化〃することを奨励した。
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 セマーナの意義とはなんだったのだろうか。一部資料によれば、当時の新聞はいくつかコラムを掲載したに過ぎず、すぐ世間的に大きなセンセーションを巻き起こしたわけではなかったようだ。
 というのも参加した芸術家たちは何か共通したプロジェクトにかかわっていたわけではなく、自由な創作活動を行い、伝統文化を破壊したいという願いのもとに集結したに過ぎなかったからだ。
 しかし、セマーナの歴史的意義は徐々に認められていくことになった。開催後は、それまでバラバラだった国中の近代主義志向の芸術家が集まり始め、美術や文学の雑誌やマニフェストが発表された。また作家、詩人、画家、彫刻家、建築家、音楽家、ダンサーなどあらゆる分野の芸術家が意見を交換する機会が増え、それにより近代芸術に関する議論がより深められる結果となった。
 サンパウロから全国的に近代芸術の波は広がっていき、その流れはその後、ジョルジ・アマードらの「地域主義」が特徴の一つである30年代に始まる近代主義第二期へつながり、現代ブラジルの芸術にも少なからぬ影響を与えているといわれる。

近代芸術週間に至るまで=一躍、珈琲で台頭する聖州

 政治的には20世紀初めは、産業の中心だった聖州とミナス・ジェライス州出身者の間で交互に大統領を出す、いわゆるカフェ・コン・レイテ体制が確立した時期だ。
 この頃、第一次大戦の影響でブラジルに最初の工業化の波がもたらされた。ある資料によれば1907年は伯国内の工場数は3358だったのが、1920年は1万3336にまで増え、工業ブルジョワジーと呼ばれる人々が出現した。
 また、発展し続けていたコーヒー産業の利潤で、聖市はリオをしのぐ勢いで急激な発展を遂げつつあり、それを反映して市立劇場もパリのオペラ座を模して1911年に建設された。奴隷制廃止後の農園での代替労働力としてヨーロッパからイタリア、ポルトガル、スペイン、ドイツ人など、中東からはアラブ系人が、1908年には日本人移民が導入された。1903年から1914年の約10年間、ブラジルに渡った移民は実に150万人に上る。
 20世紀初めから工業化がリオとサンパウロで進んでいたが、これらの事情から、聖市の経済の中心としての地位は不動のものとなった。
 しかし同時に、都市労働者はより良い給料と待遇を訴えストライキを相次いで起こし、コーヒーで儲けた「コーヒー男爵」と呼ばれる人々、労働者、中産階級、北東部や国外出身移民など多種多様な人々が入り乱れていた。
 後に近代主義をけん引する存在となるマリオ・デ・アンドラーデがその様子を22年発刊の詩集、その名も『パウリセイア・デズヴァイラーダ(狂乱のサンパウロ)』で表現している。

近代主義までの文学史

 セマーナの開催に至るまでの当地の文学史を振り返ってみたい。新大陸征服者による情報文学や教理文学などから始まり、キリスト教精神の復古を特徴としたバロックが流行し、18世紀に入ると古典主義や自然への回帰を旨とした新古典主義が導入された。
 1822年、ブラジルが帝国として政治的な独立を果たしたのと同時に、文化的な独立が求められ、当時ヨーロッパを席巻していたロマン主義が当地にも入ってきた。
 伯国文学史上最大の文豪といわれるマシャード・デ・アシスの『ブラス・クーバスの死後の回想』(1881年)で本格的な写実主義が導入され、その後自然主義、高踏主義、象徴主義などが潮流となった。
 それに続くいわゆる前近代主義期の作家と称されるエウクリーデス・ダ・クーニャ、リマ・バレット、モンテイロ・ロバートらはそれまでの文学の潮流をなぞるだけでは飽き足らず、社会問題を扱った作品を書いた。カヌードスの乱をテーマにした、1902年に発表されたクーニャの『奥地』(Os Sertoes)がその一つだ。
 同時にその頃から、何人かの若い知識人がヨーロッパの前衛芸術運動と接触し始めた。1909年にパリで打ち出された、イタリア人フィリッポ・マリネッチによる「未来派宣言」がその一例で、それをブラジルに紹介したのが、のちにセマーナ開催の立役者の一人となるオズワルド・デ・アンドラーデだ。
 1912年にヨーロッパに旅行し、現地の前衛や文学に触れたオズワルドは帰国後、それらをメディアを通じて紹介し、ブラジルの芸術、特に文学を一新させる必要があると説いた。
 これらいくつもの流れが、歴史的な結束点のように融合したのが近代芸術週間だった。自らの存在のあり方を問い続けてきた青年が、ようやく自分らしさを見出して輝かしい未来に一歩を踏み出したような、貴重な瞬間だったといえそうだ。


参考資料

フリー百科事典ウィキペディア(項目「ブラジル文学」「Semana de Arte Moderna」など、写真出典も)
『Lingua & Literatura 3 』Maria de Conceicao Castro, Editora Saraiva, 5 edicao reformulada, 1998
『Curso de Literatura de Lingua Portuguesa Ulisses Infante』Editora Scipione, 2001
『Literatura Brasileira das origens aos nossos dias』Jose de Nicola, Editora Scipione, 2003
『Literatura Brasileira Em dialogo com outras literaturas e outras liguagem』William Ribeiro Cereja e Theresa Cochar Magalhaes, SaraivaS/A Livreiros Editores, 3 edicao, 2005

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