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第7回=アナポリス=意外に古い日本移民入植=滋味深い草分けの経験談

ニッケイ新聞 2012年11月14日付け

 故郷巡り一行は9月30日朝10時には連邦直轄区の首都から155キロ、ゴイアス州のアナポリス日伯文化協会の会館に到着し、懇親会をした。同地への日本移民入植は、実は遷都のはるか以前から始まっており、歴史は意外に古い。
 1929年9月19日付け伯剌西爾時報には「石橋恒四郎(つねしろう)その他の世話でアナポリスの官有地コンセッソンに7家族が入植」とあるからだ。
 これが「セラード植民地」で翌30年には24家族、続いて31年には3家族が加わり、邦人34家族の集団地になったが、「コンセッソンの手続きに不備があり、近辺に土地を求めて移動した者が多かった」とある。
 アナポリスは当時ゴヤス鉄道の終着点で、新開地の最前線だった。こうしてセラード植民地の入植者の一部が12キロ離れた所に改めて土地を買い、カナ・ブラヴァ植民地を作った。この2カ所が同州日本人進出の嚆矢だ。「昭和十四(39)年八月には二十家族の集団地を成してゐた」(『日本人発展史』上巻、1941年)とある。
 平子喜三郎さんの息子、圭造さん(86、三重)はまさに生き字引だ。1928年に2歳で渡伯し、最初はリベイロン・プレット近くのサランジー駅の外人耕地でコロノをやっていたが、1930年にアナポリス郡ネロポリスにカフェと米を作りに移転したというから、まさに草分けだ。
 「当時20家族以上いて日本人会まで出来た。収穫はできても、近くに町がなくて販路がない。次第に半分ぐらいがサンパウロ、パラナへ移っていった。父は『サンパウロへ帰ってもしょうがない。辛抱だ』といってカフェ、ミーリョ、米を作った。51年に36キロ離れたアナポリスの町に出て精米所とかバールをやった」。
 同地は日本人が少なかったため、平子さんは1回も日本語学校に行ったことがない。「ブラジリア建設が始まる前後から急に日本人が増えた」と記憶する。「野菜の仲買を始め、63年に3人が集まって奔走し、会を新しく作りなおした。それから来年は50周年だ」。平子さんは創立に尽力した3人の一人であり、会館が建てられるまでの26年間、集会場として自宅を提供した。
 同文協の小冊子『30年の歩み』をまとめた村松仁志さん(71、福島)によれば、初代会長は森林久雄(もりばやし)さんで、66年には援協巡回診療班が通い始め、移民60周年の68年からはバストスの伯光団が数年間、同地で連続公演しており、聖州とのつながりの深さを感じさせる。
 もう一人の同地長老、松井清さん(きよし、91、三重)は1926年に家族9人、5歳で渡伯し、ノロエステ線リンス駅のサンジョアン植民地に入った。「あそこでは食べるものがないぐらい苦労した」と思い出す。「8、9歳の頃、父母兄姉と3年間で四つの墓を建てた。みんなマレッタ(マラリア)だった・・・」。
 松井さんは「父から『三重では大地主だった』と聞いていたから、日本に行ったついでに見に行ったよ。そしたらこの会館の2、3倍ぐらい」と苦笑いする。会館の土地は8千平米だ。「父は最初10年ぐらい働いて金を貯めて日本に帰るつもりだった」。
 もし、父の思惑通り錦衣帰国を飾っていたら、太平洋戦争の開戦時に20歳だった松井さんには、間違いなく赤紙が来ていただろう——と頭の中で計算した。(つづく、深沢正雪記者)

写真=左から松村仁志さん、松井清さん、平子圭造さん



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