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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第3回

ニッケイ新聞 2013年1月30日付け

 母親は「苦労して大学にやったのに、地球の反対側の新聞社に就職することはないだろう」としきりに嘆いていた。
 その夜、美子から電話が入った。
「明日の夜ですね、出発は」美子の声は沈んでいた。
「そうだよ」児玉は事務的な答えを返した。
「御免なさい。明日、両親の離婚裁判の判決が下る日で家庭裁判所に行かなければならないの。それで……」
「わかった。見送りはいいよ」美子の言葉を遮るように児玉は言った。
 児玉は早く電話を切りたかった。それが美子にも伝わったのか、一瞬、沈黙があった。
「……本当に行ってしまうんですか」
 児玉は返事をしなかった。後は美子のすすり泣く声だけが受話器から流れてきた。児玉は叩き付けるように受話器を切った。そうすることによってブラジルに渡る意志の強さを美子に示そうとしたのだが、美子とそれ以上話をしていれば移住の決心が揺らぐような気がした。すでに航空券も、サンパウロの滞在先も、すべて新聞社が手配済みだった。いまさらブラジル行きを中止するわけにはいかなかった。

「何を情けない顔をしているの。早く出国手続きをしないと乗り遅れるよ」
 金子の声に児玉は我に返った。これから海外旅行をする乗客や見送りで華やいだ雰囲気の国際線送迎デッキのどこかに、美子がいるような気がして児玉はずっと彼女の姿を追い求めていたのだ。
「児玉さん、皆、もう入りましたよ。残っているのは私とあなただけです。そろそろ入りましょう」
 声をかけてきたのは一緒にサンパウロに渡る移民の一人、小宮清一だった。小宮の周囲には見送りらしい人間はだれ一人としていなかった。
「見送りの方はもう帰られたんですか」
「いいえ、だれも来ていません」
 気に障ったのか、小宮は一人で出国カウンターに入っていってしまった。変わった男だと児玉は思った。
 ブラジルに渡る一週間前、移民は横浜にある研修センターに集合し、移住先のブラジルやパラグアイの生活習慣や気候、風土に関する講義を受けた。夜は数人ずつ部屋に分散し、センターに宿泊した。
 移民船で一ヶ月以上も船に揺られて移住した農業移民の時代は終わり、技術移民が主流で、ほとんどが独身の二十代の青年たちだった。児玉もセンターに泊まり、彼らと話す機会があった。
 児玉以外の六人もサンパウロの会社に就職することになっていた。自分の持っている技術を思う存分に生かして仕事をしたいとそれぞれの夢を語り合っていた。その中の一人で、物静かな青年が移住の動機について語った。
「失恋したからブラジルにでもいってみようと思ったんだ」
 熱い口調で語り合う雰囲気の中で、唐突とも思える言葉だった。それが小宮だった。
 出国カウンターに進んでいく小宮の後ろ姿を見ながら、児玉が「行ってきます」と、見送りにきてくれた仲間にもう一度、握手を求めた。
「皆、元気で。着いたら手紙を書くよ」
 児玉はこう言い残して出国手続きカウンターに進み、送迎デッキに二度と視線を走らせることはなかった。出国手続きを済ませると、搭乗スポットに向かった。スポットには日航機の他にもパンアメリカンやキャセイ航空など世界のエアラインがライトに照らし出されていた。彼らが搭乗するのはB747型ジャンボ機でロサンゼルスに向かい、そこからはVARIGブラジル航空でペルーのリマを経由してサンパウロに行く予定になっていた。

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