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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第26回

ニッケイ新聞 2013年3月5日

 小宮が佐織を食事に誘う時も、「近いうちに食事を一緒にしていただけませんか」と、ただ用件を伝えるだけで、ぶっきらぼうな感じさえした。しかし、寡黙な父親を見て育った佐織にはそれがかえって彼の誠実さのように思えた。
 最初のデートも映画を見た後、ドライブインで食事をし、深夜の首都高速をドライブして帰って来るだけだった。豪華なレストランで食事をするわけでもなく、乗っている車もスポーツタイプだが、高級車ではなかった。そんな小宮に佐織は交際を重ねる度に心惹かれていった。
 交際をしてから一年が経過した頃、両親には整備士をしている男性と付き合っているとだけは告げた。両親も近いうちに佐織がその男性を連れてくれるだろうと思ったらしい。佐織を信頼し、自由に交際させてくれた。整備士という堅い職業に就いていることも、親にとっては安心材料の一つになったのだろう。
 結婚はどちらからともなく意識するようになった。ところがその頃から何が原因なのか、小宮は急に無口になったり、つまらぬことで怒り出したりする機会が多くなった。
「話したいことがあるんだ……」
 思いつめた様子で話しかけてくるが、その先は言葉を濁してしまう。
「この間から、話がある、話があるって、何の話」
 佐織は小宮を見つめた。すると小宮はさらに口ごもり、「また今度にする」とだけ答えた。こんなことが数回続き、佐織も「優柔不断な人は嫌いよ」と言ってしまった。しかし、小宮はそれでも口を噤んだ。
 そうは言ってはみたが、小宮は決して優柔不断な性格では決してなかった。むしろその逆で映画を観に行く時も、どの映画を見るかは彼が決めていたし、レストランに入る時も自分の好みで店を選んだ。だから小宮が何を言いたいのか、何をそんなに迷っているのか佐織は測りかねた。

 小宮はH市の被差別部落で生まれた。中学校、高校で「同和教育」の一環として部落差別の歴史を学んだり、授業で教育映画を観たりした記憶がある。しかし、たとえ授業でも被差別部落に触れる話は、できることなら小宮は避けたかった。高校には部落問題研究会があった。同じ部落出身の生徒が入部し、小宮もその友人から入部を進められたが、できることならこの煩わしい問題から離れていたかった。
 被差別部落の歴史は授業以外にも自分なりに本で学んではいた。まったくいわれのない差別だと思う。高校に進学後、友人から直接に差別的な言葉を投げ付けられたり、差別を受けたりすることはなかった。だからと言って差別がなくなったとは小宮は考えなかった。長い歴史の中で人間の心に育まれてきた差別意識が、そんなに簡単に払拭できるとは思えなかった。
 差別は水面下に潜んでいるだけなのだ。そのことを小宮はそれまでの体験から知りつくしていた。子供の頃、差別は日常的に行われていた。もちろんそれが部落差別だとはっきり認識していたわけではない。しかし、周囲の大人の小宮を見つめる視線が、他の子供と異なっているのは肌で感じ取っていた。
 小学校にはいくつかの学区から生徒が通って来た。子供の世界にもそれまで知らない人間との関係が生まれた。新しい友達の家に行ったり、新しい遊び場ができた。子供同士で遊んでいると、一緒に遊んでいる子の親が必ずと言っていいほどそばにやってきた。そして、尋ねる文句も決まっていた。
「ぼくのおうち、どこ」「どこに住んでいるの」
 小宮が自分の住む地区の名前を言った。一瞬、大人たちの表情は険しくなるが、すぐにまた優しい表情に戻り、「ごめんね、急な用事ができたの。また今度、遊んでやってね」とか「早く、家に帰って勉強をしなさい」と言いながら、遊んでいる同級生を小宮から引き離そうとした。


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