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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第38回

ニッケイ新聞 2013年3月22日

「私の後をついてきて下さい。二十分もかかりません」
 折原のトラックは長年乗っているのか、バンパーもなく、ボンネットはあちこちがさびついていた。おまけに運転席の窓もガラスがなかった。荷台には野菜などを市場に運ぶための木箱がいくつも積まれていた。
 トラックは真っ黒な排気ガスを吐き出しながら、石畳を残すアチバイアの街を走り出した。
「ほとんど鉄くずだ」
 アントニオが忌々しそうに言った。フスキンニャはスピードを落とし、トラックと距離を置いて走った。
「これであの毒ガスを吸わなくてすむ」
 トラックから吐き出される排気ガスはそれほどひどかった。街を抜けエストラーダ(幹線道路)に出て、十分も走らなかった。トラックは路肩に寄せて児玉たちが来るのを待っていた。道の両側は小麦畑でなだらかにうねる丘陵が幾重にも波打ちながらはるか彼方まで続いていた。
 フスキンニャが近づいてきたことを確認したのか、トラックは小麦畑の中を真っ直ぐに伸びる農道に入った。数百メートルいった所に用水池があり、アヒルがのんびりと泳いでいる。折原の家はその先で、周囲には果実の木が植えられていた。
「ここです。着きました」
 トラックから降りてきた折原が言った。児玉も車から降りた。
 高さ十二、三メートルほどのマンゴーの木は大地に根を張り、空に向かって四方八方に伸び枝には真っ赤に熟れた無数のマンゴーが実っていた。その横のパパイヤの木にも鮮やかな緑の実がついていた。
「マンゴーというのはこんな大きな木になるんですか」
 マンゴーの木を見るのはそれが初めてだった。
「ここに来た頃は陽射しをよける木が一本もなかったんですが、入植した直後に植えた木がこんなに大きくなってしまった」
 折原一家がブラジルに移住してきたのは、昭和三十年代の半ばのことだった。十数年以上の歳月が流れていた。折原の語気には複雑な思いが絡まっているようだ。
「中で冷たいものでも飲みながら話しましょう」
 折原は児玉を誘った。家は太い丸太に板を打ち付けただけのもので、板と板との隙間から外の光が差し込んでいた。空気が乾燥しているせいで部屋の中はひんやりと感じるほどだ。家の中は土間で、部屋と部屋との仕切りはカーテンか板で仕切られていた。入植当時に建てた家に一家は今も住んでいるらしい。入ったところが居間になっているのか、見るからに安物とわかるビニール張りのソファと手作りと思われるテーブルが置かれていた。
「お客さんだよ」
 折原がだれに言うでもなく声を張り上げると、奥の方から年老いた小柄な女性が出てきた。膚は赤銅色で額には皺というより深い筋がいくつもあった。
「おふくろです。こちらはパウリスタ新聞の記者さんで、いとこの勇作を覚えとろうが、あの勇作と早稲田大学で一緒に勉強しとったそうだ。勇作からわしらのことを聞いて訪ねて来てくださったと」
「勇作って、オヤジさんが首を吊った、あの勇作か……」
「その勇作の同級生たい、こちらの方は」
 母親はまじまじと児玉を見つめながら言った。
「お初にお目にかかります。折原といいます。遠いところをご苦労さまです。それで勇作な、元気にしとっとですか」
「ええ」
「勇作はオヤジに似て頭のよか倅だったけんなあ」一人ごとのように母親が言った。
「おふくろ、それより親父はどげんしたと。まだ寝とるとか……」
「ああ」
「起こしてこんね」
 母親が寝室らしい部屋に入った。


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