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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第149回

ニッケイ新聞 2013年8月30日

 マリーナがリタと台所に入った。児玉はサーラでイマージェンス・ド・ジャポンという日系人向けのテレビ番組を見ていた。日本の歌謡曲を二世が歌っていた。ヒロシという名前の歌手が五木ひろしの「よこはまたそがれ」を歌い始めた。パウリスタ新聞の広告部でよく見かけた男だ。藤沢工場長の長男だった。パウリスタ新聞の給料では生活が成り立たないのは、ヒロシも同じことで、夜はナイトクラブで歌手をしていた。
 ヒロシは小学校の頃、家族で移住してきたために日本語も話せるし、ポルトガル語も流暢に話した。
 司会をしているのは二世のネルソン松田、兄のセルソ松田はサンパウロ市会議員で何度も取材をしていた。歌い終わったヒロシにネルソンが言った。
「君の歌はいつ聞いても素晴らしい。横浜の情景が浮かんでくるようだ」
 しかし、ヒロシは移住してきてからまだ一度も日本には帰っていなかった。
「次はシルビアが歌います。〈津軽海峡冬景色〉です」
 おそらくシルビアは一度も雪を見たことがないだろう。それでも彼女は情感たっぷりに朗々と曲を歌い上げる。
 日系人は七十万人といわれていた。日系社会にはそこかしこに日本的なモノは存在するし、雰囲気を感じ取ることはできる。しかし、日本のそれとはやはり違っている。
 しばらくするとそうめんができたから食べるようにと言われ、キッチンのテーブルに着いた。二階からジョゼも下りてきた。
 そうめんは茹で上がり、ザルに盛られていた。マグカップに麺つゆも用意されていた。箸はなくフォークが並んでいた。麺つゆは関西風のように見えた。
「食べてみて」マリーナが勧めた。
 児玉はフォークでそうめんを丸めこみ、マグカップの麺つゆに浸して口に運んだ。関西風に見えた麺つゆはコンソメスープだった。児玉は吐き出すわけにもいかずにそのまま飲み込んだ。
 マリーナたちは平然とそれを食べていた。いつもそうしてそうめんを食べているのだろう。
「ゴストーゾ」リタが言った。
 児玉はそうめんをほどほどにしてフォークを置き、全員が食事を終えてから言った。
「今度は私が日本の料理を作ってあげる」
 付き合い始めた頃はマリーナと何度も日本食レストランで食事をしているが、値段が高い上に、翌日には編集部にその情報が入っているかと思うと嫌気がさして、二人で日本食のレストランに入る機会は少なくなっていた。マリーナもリタもそうめんをレストランで食べた経験がない様子だ。
 児玉が子供の頃、両親は夫婦共稼ぎだった。児玉は自分でご飯を炊いたり、味噌汁を作ったりするくらいは自分でできるようにしつけられた。それが結果的にはよかった。取材のない日は自分のアパートですき焼きや味噌汁の作り方をマリーナに教えた。
 そんな生活を続けているうちに、児玉のアパートでマリーナとの同棲が始まった。児玉は経済的な余裕ができれば彼女と結婚式をあげればいいと思った。
「一度、両親に結婚のことを伝えてくれるかしら」
 それまでに何度もグァイーラを訪ね、周囲の者は二人が結婚すると思っていたので、マリーナの両親も結婚に反対することもなく承諾してくれた。祖父母も結婚を祝福してくれた。
 祖父の野村にコンソメスープのそうめんを食べたことを冗談交じりに話した。野村は腹を抱えながら言った。
「以前、俳句が二世、三世の連中の間で流行っているとジョゼが話してくれた時にも言ったと思うが、日本の文化がブラジルの日系社会に伝わるとは思えない。一生懸命に我々一世は日本の文化をそのまま二世、三世に伝えようとしたが、それはいつの間にか似て非なるモノに変わってしまった」(つづく)


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