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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第50回

ニッケイ新聞 2013年4月10日

 船内には古いペンキの匂いが立ち込め、トイレは不衛生でアンモニアの匂いが鼻を刺激した。食堂にも米がすえたような異臭が立ち込めていた。幸代は姉のお下がりのスカートを着ていた。制服も私服も幸代はすべて姉のお下がりばかりで新品を着た記憶がない。しかし、帰国者の世話をするために乗船していた北朝鮮の女性指導員は化粧もせず、幸代よりももっとみすぼらしい格好をしていた。
 他の帰国者と同じように船室を割り当てられると、金一家はデッキに上がった。仁貞はさっさとタラップを降りて岸壁に立っていた。幸代は皆と最後の挨拶を交わした。
「幸代、卒業したらすぐ来なさいよ。姉ちゃんたちは先に行って待っているからね」
 別れ際に文子が言った。父親も何かを言おうとしたが言葉にならない。
「さあ、早く降りなさい。母さんを大切にしてくれよ」
 兄の容福に促されて幸代が船を降りた。
「幸代、いつまで船に乗っている気なの。もうすぐ出港だというのに」
 仁貞は苛立っていた。
「大丈夫よ、お母さんを残して帰国なんかしないから」と幸代は大人びた口をきいた。
 幸代は船を見上げた。デッキの上では三人がテープを投げようと二人を探していた。
「ここよ」
 幸代が叫ぶのと同時だった。三人もこちらに気づいた。デッキからテープが飛んできた。幸代は岸壁に投げ下ろされた何百本のテープから三人のテープを見つけると、「オモニ(お母さん)も持って」と言った。幸代はめったに朝鮮語を使うことはなかった。家庭でもほとんど日本語だった。
 何故急に朝鮮語を使ったのか、幸代自身にもわからなかった。日本語の使用を許さない周囲の雰囲気を敏感に感じとったせいかもしれない。朝からどんよりとした曇り空だった。午前中は雲の切れ間から薄日が差すこともあったが、午後からは日本海側から吹きつける風に雪が舞った。
 強風に煽られてテープが風に流れる。幸代はかじかんだ指に息を吐きかけて温めた。仁貞も別れが辛いのか、寒さがこたえるのか身を小さくしていた。他の見送り客は顔を紅潮させ、「マンセー(万歳)」と叫び続けていた。狂乱的な見送りに幸代は言いがたい違和感を覚えた。幸代には異常とも思える興奮、感情の高まりを何のためらいもなく表現する彼らとは別の民族のように思えた。
 デッキに立つ父親たちに目をやった。普段は物静かな父親が周囲の雰囲気にのまれたのか、「地上の楽園」に移住できる喜びのせいなのか、それまで幸代が見たこともない歓喜の表情を浮かべなから「万歳」と絶叫していた。その横で同じように戸惑っている兄や姉の姿が見えた。怯えたりうろたえたりしているわけではないが、どの様に振る舞えば良いのか二人は明らかに迷っている様子だった。
 幸代は父たちが帰っていく楽園が、何故か急に寒々しいものに感じられた。デッキに佇む兄や姉は今どんな思いでいるのだろうかと想像すると、周囲に合わせて「万歳」などと叫ぶ気持ちにはなおさらなれなかった。
 仁貞は雑踏の中で帰国船を見上げていた。しかし、周囲の声にかき消されて気づかなかったが、母親は声を殺すように泣いていた。
「母さん、大丈夫よ、すぐに会えるから……」
 肩を振るわせ今にもうずくまりそうな母を幸代は後ろから抱きかかえた。
 やがて銅鑼が打ち鳴らされた。
「哀号(アイゴー)」
 どこからそんな大声が出るのか、母親が身体から絞り出すような声で叫んだ。泣き叫んでいるのは仁貞だけではなかった。一世と思われる人々は身を揺すり、地に伏し、天を仰ぎ、この世の不幸を一身に背負ってしまったかのように泣きじゃくっていた。幸代も父や兄姉との別れはつらかった。実際、デッキに立つ三人を見て涙を流がしそうになった。


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