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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第2回

ニッケイ新聞 2013年1月29日付け

 折原は福岡県出身で大学にはいつも下駄を履いてやってきた。山に登る前日はリュックサックを背負い文学部の門から校舎に続くスロープを歩いている姿がよく見られた。背が低いので、後ろから見るとリュックサックから足だけが伸びているように見えた。
 遅刻して校舎内を歩いている時、下駄の音がうるさいとある教授から注意されたことがあった。折原は「申し訳ありません」とひとこと答えると、裸足になって教室を歩き席に着いた。折原が冬でも下駄を履くのは、本人は「山登りの脚力を強くするためにもこれが一番だ」と言うが、ほとんどの者は経済的理由だと思っていた。
 炭鉱町出身の彼は酔うといつも口にした言葉がある。
「五木寛之の『青春の門』なんて俺にも書けると。俺には書きたかこつがあっとよ」
 それが何なのか、彼の口から語られたことはなかったが、泥酔した時、涙を浮かべながらこの言葉を口にした。酔って激しく嘔吐する折原を介抱した時のことだった。結局、それ以上のことはわからなかった。
「山登りもいいが、来年は必ず卒業しろよ」
 折原は児玉の言葉に黙ってうなずいた。
「これ、俺の従兄弟の住所だ。機会があったら訪ねてみてくれ」
 折原は小さなメモを児玉に渡した。折原の叔父一家は炭鉱の仕事に見切りを付けて、一九六〇年代にブラジルに移住していた。
 人垣を掻き分けて、金子幸代が児玉の前に出た。
「児玉君、元気でね」
 金子は大学院に進んだが、年齢の割りにはまだ少女のあどけなさを残していた。彼女には恋人がいた。
「箱根はどうしている……」
 児玉は他の人間には聞かれないように、金子の耳元で囁いた。彼女の恋人、箱根敏とは教養課程で社会学概論の授業を取って以来、顔見知りになっていた。しかし、三、四年生の頃はほとんど大学で見かけることはなかった。児玉自身、大学に顔を出すことが少なくなったということもあるが、箱根は学生運動に没頭していた。
 文学部をはじめ早稲田の自治会は革マル派と呼ばれるセクトが牛耳っていた。法学部だけが日共系の学生の勢力が強かった。箱根は反帝学評に所属し、革マル派とは対立していた。革マル派にも目をつけられ、公安当局にも顔は割れ尾行が付いていた。
「彼のことだから、しぶとく生きていると思うわ。それよりも児玉君のやろうとしていること、私の問題でもあるの。きっと帰ってきてね」
 金子の両親は在日朝鮮人だった。しかし、彼女だけは帰化し、日本国籍になっていた。何故、児玉がブラジルにまで行く決心をしたのか、最も理解してくれた友人の一人だった。
「そろそろ出国手続きをした方がいいぞ」越生が促す。
 児玉は見送りにきたくれた仲間に会釈しながら応えた。
「皆、ありがとう」
 しかし、児玉の視線は彼を取り巻く人垣のその向こうの雑踏をさまよ彷徨っていた。それに気がついたのか越生が聞いた。児玉には五歳年下の恋人がいた。朴美子(パク・ミジャ)という在日韓国人二世で、そのことを知っているのは越生だけだった。
「彼女の姿が見えないが、何かあったのか」
「別れた」
 児玉の答えに、越生は口をつぐんだ。
 大学を卒業したその年の春、彼女は早稲田の社会科学部に入学したが、その数ヶ月後二人は別れた。
 出発前夜、児玉は家族と食事をしていた。父親は国鉄の電気技術者で、長男の児玉がブラジルに行くと言ってもことさら反対はしなかった。サラリーマンの生活がどれほど味気無いものかを知り尽くしていたためか、「好きにしてみろ」とひとこと言っただけだった。

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