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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=55回

ニッケイ新聞 2013年4月17日

 一通りの紹介が終わってから幸代は、一人の学生から声をかけられた。
「幸代さん、もしかして横浜田奈中学校の卒業ではありませんか」
「そうですが」
「やはり思った通りだ」
 自己紹介の時、ほとんどの者は自分の出身高校を名乗った。幸代もそうした。出身中学には触れてはいない。声をかけてきた学生に見覚えはまったくなかった。
「覚えてはいないと思いますが、私も田奈中にいたんです。中学一年が終わる頃、転校しましたが」
「そうでしたか」
「お姉さんはお元気です」
「姉を知っているんですか」
「直接に話をしたことはありませんが、今でも彼女が書いた作文が県の優秀賞を受賞したことは記憶しています。あの日の朝礼で、あなたが涙を流していたのを昨日のことのように覚えています」
 幸代は一瞬、彼も在日で、同じ朝鮮人部落に住んでいたのかと思った。部落にはさまざまな人間が離合集散を繰り返していた。朝が明けると同時に、その日の糧を得るために屑鉄集めにリヤカーを引きながら、どこへともなく去っていく老人、昨晩飲んだマッコリに顔を赤らめながらそれを見送る中年の男、稼ぎがないのに酒ばかり飲んでいると口汚く罵っている内妻。
 やがて登校前の子供たちが一斉に家から飛び出してくる。消しゴムや鉛筆、ノートを買う金をねだる声が聞こえてくる。同時に母親の怒鳴る声がする。
「どこにそんな金があると思っているのか。とっとと学校へ行ってきな」
 朝鮮人部落は刺々しい喧騒に満ちていた。幸代は自分の恥部を見られたような錯覚を覚えた。
「お姉さんの作文が紹介されている時、私はあなたの横に並んでいました」
「お名前はなんて言いましたっけ」
「児玉です。児玉正太郎です」
 微かな記憶を辿った。
「えっー、ショーちゃんなの」
 児玉はクラスメートから「ショーちゃん」と呼ばれていた。
「こんなことってあるんですね」
「何年ぶりかしら」
 幸代にも懐かしさが込み上げてきた。
「七年ぶりになります。お姉さんはどうしていますか」
 児玉の質問に幸代は一瞬、躊躇した。
「姉は共和国に帰りました。日本に残ったのは母と私だけ、今は二人で暮らしています」
 児玉はそれ以上の詮索してこなかった。家族が二つに分かれて暮らす背景には、語り尽くせない複雑な事情があることぐらいは想像がつくのだろう。児玉は姉の消息を聞く代わりに他の同級生がどうしているのか、近況を尋ねてきた。しかし、中学時代は日本人の生徒から差別された思い出しかない幸代には答えようがなかった。
 幸代は入学と同時に朝鮮統一研究会に入部した。朝鮮統一研には幸代のような在日二世が所属し、彼らは授業が終わると本部校舎一号館地下にある部室に集まってきた。
 一号館は正門をくぐって右手にある古い建物で、一階より上は法学部、政治経済学部、教育、社会科学部の事務局が入っていた。しかし、地下は学生のサークル活動の拠点で、ベニヤ板で仕切られた部屋が長屋のように並んでいる。朝鮮統一研は棟割り長屋の奥まったところにあり、手製のドアを開けると、壁側の本棚には雑然と朝鮮半島に関する書物が並べられ、部屋はタバコと黴臭さが充満していた。
 幸代はその日の授業が終わると、日課のように朝鮮統一研に顔を出した。部屋の隅でタバコの煙にむせながら、彼らの会話に耳を傾けた。いつもおとなしく聞いているばかりの幸代にある先輩格の学生が彼女の生い立ちをそれとなく尋ねた。彼女は問われるままに、自分の生い立ちや家族が共和国に帰国したことを告げた。彼女の父や兄姉が北朝鮮に渡ったことを知ると、幸代を見る目が変わった。


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