ホーム | 文芸 | 連載小説 | 移り住みし者たち=麻野 涼 | 連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第58回

連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第58回

ニッケイ新聞 2013年4月20日

 しかし、幸代の気持ちは沈んでいくばかりだった。
「俺、昨日、いいバイトがあって、今日は少し金の余裕があるんだ。軽くならおごるけど」
「授業はいいの」
「危なくなったら、例によって幸代のノートを借りるから大丈夫さ」
「そう、じゃあ、今日はお言葉に甘えて、児玉君におごってもらうわ」
 二人はそのままスロープを下り、高田馬場駅に向かって歩いた。道の両側に古本屋が軒を並べているが、駅に近付くにつれて学生でも入れるような手頃な赤提灯の店が立ち並ぶ。どの店も一階はカウンター席とテーブル席が二、三並び、二階は学生のコンパができるような六畳ほどの和室になっている。  児玉は時々、利用している稲門という店に入った。まだ五時前で暖簾がかかっているものの店はまだ開店準備をしている真っ最中だった。
「料理の方は少し待ってもらうことになるけどいいかい」
 カウンターの中で仕込みをしている板前が言った。
「かまわない」
 二人はカウンター席に座った。 「幸代、何、飲む」 「まず冷たいビールでももらおうかな」
「それじゃまずビールを下さい」
 冷えたビールが運ばれてきた。児玉が幸代のグラスにビールを注いだ。
「ありがとう」
 幸代は注がれたビールを美味しそうに口に運んだ。しばらくの間、二人はもうすぐ始まる後期試験の情報を交換し合っていた。しかし、そんなことはどうでもよかった。
「児玉君、どう思う」
「何をだ」
「私、帰化したの」
 児玉はグラスをテーブルに置いた。
「おまえ、今、何て言った」
「帰化したのよ」
「おふくろさんは納得しているのか、それに北の家族はどうするんだ」
「母には内緒よ、言えば反対されるに決まっている」
「おまえのことだから、考えた末の結論だとは思うが」
「作家の李恢成は北であれ南であれわが祖国なんて言っているけど、私たち在日には祖国なんてないのよ。少なくとも私にはそんなもの必要ない」
「でも、幸代、帰化してしまったら、北に帰った家族とも簡単に会えなくなってしまうんだぞ」
「今だって会えないのに、朝鮮籍に意味があるとも思えないわ。韓国国籍にすることにも抵抗がある。国家とか民族とか、もうたくさん。うんざりだわ。私には安住できる平和な場所があればそれで十分よ」
「国家だとか民族って、俺たち日本人は鈍感だからな、幸代の気持ちも正直のところ、どう理解していいのかよくわからない」
「国家や民族なんてすべて人間が作り出した幻想なのよ。そんな幻想に縛られて生きるのはもう終わりにしたいの」
「帰化することによってその幻想から解放されるとでも言うのか」
 幸代はグラスをカウンターに叩きつけるように置いた。
「そうね、帰化したからって差別から解放されるわけでもないし、私の両親が朝鮮人だという事実が変わるわけでもない。でも、もし国家や民族が人間が造り出した幻想なら、何もそんなものにこだわっていなくてもいいと思うの。生きやすい道を選んだからといって、それが民族的な裏切り行為だとも思わない。言いたい奴には言わせておけばいい。箱根君が言うように、プロレタリアートの独裁、そして労働者階級による革命の達成、あらゆる抑圧から解放されて支配階級も労働者階級もない、民族的差別もない社会が形成されれば、いや、そんな社会を皆で創っていかなければならないと思うの」


著者への意見、感想はこちら(takamada@mbd.nifty.com)まで。

image_print

こちらの記事もどうぞ