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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第59回

ニッケイ新聞 2013年4月23日

「それはそうだが、幸代、おまえ、まだ箱根と続いているのか」
「うん、付き合っているわよ」
「そうか」
「マルクス主義による社会の創造が可能かなのかどうか、実際のところ私にはわからない。でも、そこに夢を託すしかないのよ」
 幸代はかなり早いペースでビールを煽り、しまいには日本酒をあびるように飲んだ。その晩、児玉に抱えられて幸代はアパートに帰る羽目になった。

差別されし者の恋

 小宮は毎朝、アクリマソンからフォルクスワーゲンで通勤していた。輸入されたホンダ車の販売、整備はもちろんだが、マナウスで現地生産されるオートバイは年々増加し、整備士の不足は明らかで、持ち込まれたオートバイの修理、整備に一週間以上もかかってしまうこともあった。
 整備士養成は急務で、その役目が小宮に課せられた。小宮は移住を考えるようになった頃から日常会話、車やオートバイの各パーツについてはポルトガル語を丸暗記していたが、整備方法をブラジル人に教えるには、それだけでは十分とはいえなかった。
 整備士を志望するブラジル人に懸命に教えるが、言葉に詰まり言いよどんでしまう。ブラジル人も小宮から技術を学ぼうと必死だが、言葉の壁だけはどうしようもない。
「日本から来た移民にポルトガル語を教える学校があるんだが、そこへ行ってみる気はないかね」
 日本のホンダから単身で派遣されてきている竹沢所長が、辞書を引きながら説明している小宮に、見るに見かねて言った。表紙はオイルで真っ黒になり、油が辞書のページにしみ込んでいる。
 日本人移民を対象にポルトガル語を教える学校は東洋人街の中心地、リベルダーデ広場に面したところにあった。
「このままではいけないと私も思っていたところです。独学で勉強してきたポルトガル語と実践ではやはり違います」
「いや、君のポルトガル語の実力はたいしたものだよ」
「リベルダーデの学校は日本人ばかりでなかなか上達しないと思うんです。日本人のいないというか、日本語が一切通用しない学校がいいんですが、どこか適当なところはないでしょうか」
 竹沢はしばらく考え込んでいたが思い当る語学学校はなかった。
「ブラジル人に聞いてみるよ」
 竹沢は社員一人一人に尋ねてみたが、外国人移民にポルトガル語を教える学校を知る者はいなかった。がっかりしている竹沢にいつもにぎやかに冗談を飛ばしているパウロが言った。
「俺が小宮にぴったりの学校を紹介してやる」
「おまえ、本当に知っているのか」
 竹沢は何度もパウロの冗談やいたずらに騙されてきた。
「ちゃんとした学校だよ、ブラジル人しか来ない、しかも仕事が終わったあと、授業料も払わなくて勉強できる最高の学校さ」
「そんな学校があるわけないだろう」
 竹沢が取り合わないでいると、憤慨した様子でパウロが言った。
「あるさ、モブラールという立派な学校が」
「おまえはいつもそんなことばかり言って、小宮にもっと親切にしないと技術を教えてもらえないぞ」竹沢が少し怒った表情で言った。
「何ですか、そのモブラールというのは」小宮は興味を抱いた。
「いや、君が通うような学校ではないよ」
 モブラールは識字率向上のための教育政策で、小・中学校の校舎を夜間開放して、希望者は無料で授業を受けることができた。教師は本職の教員や大学生のボランティアだ。
 今、小宮に必要なのは文法に則った正確な会話よりも、単語を並べるだけの会話であっても修理、整備のコツをブラジル人に教えられる日常会話だ。


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