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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第87回

ニッケイ新聞 2013年6月4日

「ナチズムとは違って、日本人からの厳しい差別を受けている在日が、その差別に抗して民族文化を守るための自衛手段よ」
「よくわからない。民族文化を守るために、日本人との結婚は忌避する。それではアメリカ人やイギリス人とはどうなんだ。中国人ともダメなのか」
「それは普通の国際結婚でしょ。私が問題にしているのは在日と日本人なの。そこには抜き差しがたく日帝三十六年の植民地支配があり、今も差別されている現実があるから、日本人の血を引く男性との結婚は考えられないと言っているの」
「日本人の血が問題なのか。それならアメリカ人とは結婚できても日系アメリカ人との結婚はやはり無理ということか」
「あなたの言っていることはヘリクツ。鼻クソとヘリクツはどこにでも付くというけど、あなたの言っていることは鼻クソ以下、聞いているとムカムカしてくるわ」
 吸いかけのタバコを美子がついに投げつけた。そのタバコを拾い、児玉は灰皿に捻じり消した。
「民族の血だなんて言っていれば、日本人と在日は永久に相容れないで、差別が拡大再生産されていくだけだ」
「ちょっと待て。今の一言は許せないわ。差別しているのは日本人で、拡大再生産しているのはあなたたちよ」
「差別をなくし、ともに生きようとする日本人の手を振り払っているのは、君と違うのか」
「そういう状況に追い込んでいるのは日本人でしょう」
「では、聞くが日本人と在日の間に生まれた子供はどうすればいいんだ。日本人と見なして拒絶するのか、それとも同じ在日として受け入れるのか。どちらなのか教えてくれ」
「それは……」美子は口ごもった。
 答えられるはずもなかった。人間を流れている血などで分けられるはずがないのは自明の理だ。現実には在日韓国人と日本人の結婚は増え、当然、日韓の混血児も次々に誕生していた。
「差別される側の論理がすべて正しくて、すぐに自己批判する学生運動の活動家みたいな真似を俺はする気はない。日本人だけが差別の張本人のようなことを言っているが、君たちの側には差別はないのか。現に日本人と在日との間に生まれた子供たちを平気で否定するようなことを君は言っている」
 美子は黙り込んだ。
「在日の間にだって、全羅道や済州島の人たちを見下す風潮があることぐらい知っているだろう」
 高麗王朝の始祖太祖大王が王制世襲を永遠に継続させるために「訓要十ヶ条」を残した。百済を起こして王朝に反逆した歴史があるので、全羅道の出身者は背信するから宮廷に登用するなと記されていた。済州島も全羅道と同一視された。美子の両親は済州島出身だった。
「その上に本貫だぞ。血にこだわっていれば、在日は誰とも結婚できなくなるぜ」
 美子が怪訝な顔をして聞いた。
「何よ、その本貫って……」
「お前、本貫も知らないで民族文化だ、血の純血だって言うのかよ」
 児玉は言葉の端々に侮蔑を滲ませながら言い放った。美子は雨に濡れた子犬のように大人しくなってしまった。
 本貫は一族の出身地、ルーツを記した家系図で、同じ一族と見なされると、千数百年前の始祖が同じという理由で結婚ができない。
「もう少し自分の民族のことを知ってから言いたいことを言え」
 児玉は美子を詰った。美子は泥酔状態の児玉に、グラスに残った水割りを頭からかけて出ていってしまった。
「大変です。孫が警察に連れていかれました。児玉さん、なんとかしてください」
 鶴川梅子から電話が入った。鶴川は韓国人の夫と子供たちとソウル市内で暮らしていたが、夫ががんで亡くなったのを契機に、日韓条約締結から七年目に日本に帰国した。


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