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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第76回

ニッケイ新聞 2013年5月17日

 そのアミノ布団店の入口横にある螺旋階段を上がった二階に受付があった。学校の名前はエスコーラ(学校)・デ・ソロバンで、フロアをいくつかに区切り教室として使っているのか、講義する声が聞こえてきた。昼間は算盤を習いにくる二世、三世の子供たちで教室は埋まるが、夜間は日本語を学ぶ日系人や児玉のような新来の移民たちが、ポルトガル語を学ぶために通ってきていた。
 受付にいたのは髪の長い二十代後半の日系人で、タイプを打っていた。児玉は彼女にポルトガル語で声を掛けた。
「ボア・ノイチ(今晩は)」
「モーメンチーニョ、ポルファボール(すみません、ちょっと待って下さい)」
 彼女はタイプを打ちながら答えた。素早い手つきで二、三行打ち込むと、タイプ用紙を引き抜き、それに目を通しながら児玉のところにやってきた。
「ごめんなさい、夜は私しか受付がいないもので」
「ポルトガル語を勉強したいのだけれど、手続きとか授業料はどうなっているのでしょうか」
「初級、中級、上級とクラスは分かれています。授業料は週に何回講義を受けるかによって異なります」
 彼女は料金表を示しながら説明した。児玉は初級クラスの授業から受けることにした。授業料と入学金をその場で支払おうと小切手帳取り出した。ブラジルに来てから現金ですべてを処理していたが、トロンバジーニョ(強盗)が多いこの国では現金を持ち歩くことは危険がともなった。小切手は銀行に口座を開ければその場で小切手が発行された。しかし、すべてのブラジル人が几帳面に残額を計算しながら小切手を切っているわけではない。
 どこの商店でも月末決算の時には多数のセンフンド(不渡り)を抱えることになる。商店側にとっては悩みの種だが、現金を要求するわけにもいかず、免許証や携帯が義務付けられている住民票の提示を求めて住所と電話番号を小切手の裏に記載するのが精一杯の防衛策だった。
 児玉は真新しい小切手帳を取り出し、カウンターの上に広げた。
「いくらですか……」
 児玉は彼女に聞いた。彼女が金額を答える。児玉はその数字を書き込んだが、同時に小切手にはその数字をポルトガル語で書き込まなければならない。そのスペルがなかなか出てこなかった。もたもたしている児玉を見兼ねて彼女が言った。
「私が書きましょう」
 彼女は小切手を児玉から受け取ると、料金をポルトガル語で記入した。
「あとはここにサインをして下さい」
 慣れた手捌きで小切手を児玉の前に差し出した。いわれるがまま児玉がサインをした。それを受け取ると、彼女は日本語で聞いた。
「日本からきたばかりなんですか」
 どこかの地方訛りが入ったような独特な日本語だった。
「君は二世ですか」
「いいえ、三世です」
 会話の教科書に出てくるような二人のやり取りがあって、児玉が尋ねた。
「お祖父ちゃん、お祖母ちゃんの出身はどこですか」
「ジッチャンは広島県、バッチャンは熊本県天草です」
「あなたは日本に行ったことがあるの」
「行ったことはありません。いつか行ってみたいと思って、私も日本語の勉強を始めたばかりです」
 彼女は野村マリーナといった。サンパウロから六百キロほど離れたミゲロポリスという小さな町で生まれ、その隣町のグァイーラで育ち、サンパウロに出てまだ一年とは経っていなかった。その日はとりとめのない話をしばらくして、語学専門学校を出た。
 数日後、児玉は意外な場所でマリーナと再会した。
 児玉はブラジルの農業にも強く関心を抱いていた。農業全般について知るには日系の農業組合から情報を得るのが最も手っ取り早い方法だった。


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