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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第73回

ニッケイ新聞 2013年5月14日

 川添はブラジルが無限の可能性を秘めた国であることを強調した。児玉は川添の説明を丹念にメモしながら聞いた。三十分ほど川添の講義を聞いた後、児玉は広報課を出た。階段を降りたところで児玉はマリーナに会った。彼女も児玉に気づいたらしく挨拶してきた。
「ボンジア」
「マリーナは組合で働いているの」
「ええ、私はジャガイモを扱うセクションで事務の仕事をしているんです。児玉さんはどうしてここに」
「私はパウリスタ新聞の取材で、広報課の川添さんからセラード地帯の話を聞いていたんだ」
 マリーナは、昼間は南伯組合で働き、夜はソロバン学校で働いていた。日系社会で給料が安いのは新聞社で、その次が農業組合、そして南米銀行だった。しかし、ブラジルの経済成長とともに、日系社会だけではなく一般のブラジル人の顧客を増やし銀行、組合は徐々に給料水準を上げていった。
 新聞社は一世が漸減、新移民の激減で発行部数は減る一方、当然給料も最低給料の数倍程度だった。最低給料は法律で定められた給料の最低基準で、それだけでは独身でも生活は困難だった。サンパウロに出てきたばかりのマリーナは二つの職場で働くことによって、生活を維持しているのだろう。
 その日以降、児玉は学校だけではなく組合でも顔を合わすと挨拶するようになった。南伯組合は日系人が組織した農業組合だが、会話はポルトガル語で行われていた。しかし、奥地の生産者の中には、日本語しか話せない移民も多く、二世、三世の従業員も日本語を理解する者が優先的に採用されていた。
 マリーナもかなりの日本語が話せたが、日本語学校で学んだものではなく、祖父母との会話を通して学んだものだった。

 児玉は原稿を書き終えると、コンデの坂を駆け上るようにしてソロバン学校に急いだ。いつも遅刻で授業が始まっている教室にそっと入った。授業の終わった後、児玉は学校近くのバールで食事を摂ってから帰宅した。時折、マリーナも帰宅途中にそのバールでコーヒーを飲んでいた。そんなことから親しく話をするようになった。
 児玉が学校に通い出して三ヶ月が経過した頃だった。児玉はマリーナをバールに誘った。
「授業が終わった後、相談があるんだけど、少し時間を割いてもらえるかな……」
「いいけど」
「では授業が終わった後、コンセレイロ・フルタードにドゴンというバールがあるでしょう。そこで待っている」
 ドゴンは自家製のアイスクリームを売るバールで、若者の間では評判になっている店だった。児玉はカウンター席に座り、レモン汁をかけたサラミソーセージを肴に、冷たいビールを飲みながらマリーナを待った。マリーナも間もなくやってきて、隣の椅子に座った。
「遅くなってごめんなさい」
 マリーナは走ってきたらしく、息を切らしながら言った。
「君もどう」
 児玉はビールを勧めた。
「ええ、いただくわ」
 運ばれてきたビールをマリーナは一口ほど口に飲んだ。
「相談というより実はお願いがあるんだけど」
「何かしら、私にできることかしら」
「うん。実は私にポ語を教えてほしいんだ」
「だってポ語なら学校で勉強しているでしょう」
「もちろん学校でも勉強するけど、締め切り時間の関係でどうしても出席できない日があるんだ」
「そうですね。児玉さんは結構欠席が多いから授業に付いて行くのが大変かもしれませんね」
「そうなんだ。土曜日でも日曜日でも構わないから、一時間ほど個人的に会話を教えてもらえないだろうか」


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