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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(14)

ニッケイ新聞 2013年6月1日

 米英の在ブラジル公館からすると、枢軸国系の新聞は目障りな存在であった。ドイツ語の新聞がヒットラーを賞賛し、イタリア語の新聞がファシズムを声援、日本語の新聞が、大陸での日本軍の破竹の進撃ぶりに酔ったような紙面をつくる。それに、それぞれの国の移民社会が影響され、周辺に祖国の主張を宣伝する。バルガスへ「アレをなんとかしろ」と圧力をかけたことは、充分、考えられる。
 バルガスは、まず、外国語出版物の検閲制、主要記事のポルトガル語訳添付の義務付け、外国人社長禁止などを発令した。
 そして2年後の1941年、遂に外国語出版物の発行を禁止した。邦字紙は7月から8月にかけて、すべて姿を消した。
 当時サンパウロのピニェイロスに、暁星学園という私立学校を営む岸本昂一、丘陽と号するクリスチャンがいた。この人が戦後『南米の戦野に孤立して』という日本語の書物を著し、その中で、こう記している。
 「アメリカが、南米最大の国ブラジルから、日本人の勢力を駆逐覆滅せんがため、如何に巧妙なる宣伝戦術を用い、ブラジルの民衆をして排日離反に導くための謀略は、蓋(けだ)し想像以上のものがあった。先づ第一に、日系市民経営の新聞を何らの理由なくして、突如發行禁止し、報道を奪って日本人社會を暗黒ならしめ、謄写版刷りのビラの送附をも厳禁せしめて……(略)」  

 北パラナのバンデイランテスにあった野村農場(日本の野村証券の社主が所有していた大型農場)の支配人牛草茂は、1941年8月、日本の本社に送った業務報告の中で、次の様に記している。
 「最近に於ける北米のブラジルに対する圧迫は実に予想以上に猛烈なるもの在之(これあ)り、心あるブラジル人は、自国を属領扱いにする北米に対しては内心痛憤致し居るも、余りある金力とブラジルの北米に対する致命的なる経済上の依存関係を利用して迫り来る北米の外交政策には、いやいやながらも引きずられざるを得ざるブラジルの現状にて、当地有識者の間に於いては万一北米が対日宣戦布告を行えば間も無くブラジルも之に追従す可しとの見解が行われている実情に候…(略)…北米はブラジルに於ける第五列部隊の本部をリオに置き、月75万ドルの金をバラ撒き、ブラジルのあらゆる方面に食い込み居り…(略)…大蔵大臣ソーザ・コスタ氏及び外務大臣オズワルド・アラーニャ氏は完全に北米の手先にて、従来、比較的枢軸側に好意を有し居りし中堅軍部中にも弗の力に骨抜きとなる者も多き由にて候。唯、大統領及び参謀総長の二人は飽くまでも独立国としての態面を保ち自主独立的見解の下に行動致したき念願の由に候も…(略)…北米の圧迫は強大にて、愈々となれば大統領の首のすげ換さえ行いかねまじきあり様にて……」
 文中アラーニャは(本稿ではアランャと表記しているが)1934年5月、排日法案(新々修正案)の審議が紛糾した時、採決に持ち込み、これを成立させた大蔵大臣である。
 邦字新聞の発行終了により、邦人の多くは、日本、世界、ブラジルの動きを知る情報ルートを遮断された。これは、その後の……つまり戦中・戦後の邦人社会に大きく影響して行く。

 日の丸の下へ…

 邦人たちは、日本とブラジルの二陣の……あるいは米英も含めて四陣のナショナリズムの熱風によって発生する乱気流に相次ぎ巻き込まれ、もがきながら脱出口を探していた。
 そこから生まれてきたのが、日本軍の進出地へ移動したい、海外移住はやはり日の丸の下ですべきだ、という気分であった。
 これ以前にも、日本への帰国はあった。ブラジルに見切りをつけて引き上げたり、小金を貯めて、錦衣帰郷の真似事をしたり、適齢期の若者を配偶者さがしに戻したりした。(つづく)



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