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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(24)

ニッケイ新聞 2013年6月15日

 榛葉は、宮内省勤務の弟がいるだけであり、警視総監の兄弟などいなかった。スパイ行為も全くなかった。が、逮捕後ここに5カ月留置され、リオのイーリャ・ダス・フローレスに送られて9カ月、再びここに戻されていた。
 5号室には、児玉満という青年もいた。児玉は数カ月前、マリリアからサンパウロへ出てきて、バールでカフェーを飲んでいると、一ブラジル人が話しかけてきた。彼は枢軸国人を装って戦争の話を始め「アメリカが日本にやっつけられたら、ブラジルも相当に困るネ」などと誘いをかけてきた。(公の場での、この種の話は禁じられていたから)児玉は警戒、ブラジル人がブラジルの悪口を言うことについて、きつく注意した。すると、男は服の裏につけていた刑事の徽章(きしょうを示し、近くの憲兵隊に連行、児玉をスパイの有力な嫌疑者である、と引渡して出ていった。
 この仕打ちに児玉は激怒、事実を憲兵士官に告げた。士官は部下に、その刑事を探しに行かせ呼び戻し、児玉と対決させた。真相は明らかになり、刑事は馘首(かくしゅ)された。
 児玉はマリリアに戻り、働いていたが、ある日、地元の警察署に拘引され、さらにサンパウロの、このオールデン・ポリチカへ送られてきた。着いたとき、児玉の前に現れ、陰険な顔つきでニヤリと笑ったのが、あの刑事であった。復職していたのだ。児玉を「危険思想を抱く人物」として1回の取調べも行わず、留置し続けた。既に3カ月が経っていた。
 もう一人、マリリアから来ている青年がいた。彼は、父親の綿花農場で働いていたが、町のバールで知人と日米戦争の形勢について議論し「アメリカが負ける」と言ってしまった。それを聞いていた誰かが警察に伝えたため、呼び出され、サンパウロ送りとなった。以後90日、ここに居るという。
 別の一人は、バストスの住人で、戦前、大政翼賛会ブラジル支部の設立を目指す有志の集りに招かれて出席した。その出席者の名簿が、国交断絶後、警察の手に渡り、めぼしい人物は家宅捜索を受けた。その折、この人の家から海軍時代の写真が出、日本の軍部から派遣されてきた特別使命を帯びた人間ということにされてしまった。6カ月間、地元の警察に留置され、釈放3カ月後、再び拘引され、ここに連れてこられた。この人は、岸本と会って間もなく、リオに送られた。
 ノロエステ線ヴァルパライーゾで請負農をしていた一邦人は、流れ者の労務者に酒代をたかられ、拒否すると、その労務者は、彼がブラジル人に反戦思想を吹き込んだ、と警察に訴えた。サンパウロに送られてきて留置された。6カ月後、釈放。3カ月後、再び地元で拘引(こういん)され、またサンパウロへ送られてきた。
 5号室には、路上で日本語ならぬ英語で話をしたため、逮捕されたという人までいた。百姓が英語を話すのはおかしい、と刑事が外国人鑑識手帳の提示を求めてきたので「まず、そちらから見せろ」と要求したら、激怒、引っ張られたという。
 1943年4月、半田日誌。
「二十二日 香山さんから海興異変を聞く。宮腰さん、長谷川さん、それからもう1名が社を出されたとのこと。政府の監督の仕事で、軍部の命令らしいという。無論、退職金なしである。歯軋(はぎし)りするような思いだ。今に見ていやがれ!と思う」
 海興ブラジル支店は、この後、清算されてしまう。
 5月27日の半田日誌は、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死を記し、30日のそれには「アッツ島守備隊、全滅の報あり…(略)…我々も民族永遠の発展のため微力を尽くさねばならない」とある。(つづく)



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