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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第107回

ニッケイ新聞 2013年7月2日

 他の整備士も技術を習得しようと懸命になっていたが、竹沢によるとパウロは何度説明してもオートバイのメカニズムを理解しようとしないと嘆いていた。その理由は現場で教えているとすぐにわかった。
 最初のうちはパウロだけではなく、ブラジル人は小宮の説明をノートにメモするどころか、メモ用紙さえ持っていなかった。注意を与えると、パウロ以外の五人のスタッフはメモを取るようになった。しかし、パウロはいくら注意してもメモを取らなかった。それで竹沢はパウロに愛想を尽かしていたのだ。
 他の五人は高校を卒業しているか、あるいは働きながら高校に通っていた。日本とは比べようもないほどの学歴社会で、大学卒業の資格を持つ者はブラジルではエリートだった。貧しくて学校に通えない者も少なくはない。成人してから中学や高校に通う者も珍しくはない。
「教師と生徒の恋愛もあれば、三角関係で授業中に大騒動が起きることもあったわ。女性の教師と女生徒が格好いい男子生徒を取りあい、取っ組み合いしているのを見たことがあるわ」
 叫子からモブラールでの体験を聞かされた。
 見習い整備士の採用資格は最低限中学卒業資格を有していることだ。竹沢はパウロの中学卒業資格に疑問を抱いていた。
「中卒がウソならクビするしかない」
 竹沢はパウロの解雇まで考えていた。
 しかし、メモは取らないものの必死に覚え込もうとしている努力は伝わってくる。皆の前で注意すれば、パウロは「タ・ボン(わかりました)」と答えるが、その後はいつもの繰り返しだ。
 その日、パウロにはブレーキ調整の簡単な整備を任せ昼食に誘った。休みは二時間あり、オフィスの近くに住む者は自宅に戻り昼食を摂る。遠くから通勤する者は、弁当を持参するか、バールで昼食を摂る。パウロは弁当を持参していた。
「パウロ、メシでも食いながら少し話したいことがあるんだ」
 一瞬、訝る表情を見せたが、いつものひょうきんな顔に戻り、
「わかった」
 と答え、オートバイの整備に取りかかった。
 オフィスの方は二つのグループに分かれて順番に昼食を摂るが、整備担当者は正午から午後二時までが休憩時間だ。
「どこで食事するんだ」
 昼食時間になると、パウロは小さな紙の包みを持って、小宮のところにやってきた。包みは弁当らしい。小宮はパウロを車に乗せると、自宅に戻った。部下を一人連れていくと、あらかじめ電話で叫子に知らせておいた。
「俺のアパートでメシを食いながら話そう」
「話なら会社でもできるだろう」
 パウロは車に乗り込むと不安そうに言った。
 アパートの地下の駐車場に車を入れ、エレベーターで上がった。パウロは無口になった。
 カギを開けて中に入ると、焼いている肉の匂いが流れてきた。
「帰ったよ」
 サーラ(リビングルーム)は二十畳ほどの広さがあり、ドアの右手の窓からはアクリマソン通りを行き交う車が見える。反対側の窓からはアクリマソン公園が望める。ダイニングテーブルは公園が見える側に置かれている。
 キッチンから叫子が「おかえりなさい」と応えながら出てきた。肌の黒い女性が目の前に現われれ、慌てたのはパウロだった。
「奥さんはブラジル人なのか」
 目を見開き、小宮と叫子を交互に見ている。
「セニョーラ(奥さん)はブラジル人ですか」パウロが聞いた。
「ジャポネーザ(日本人)よ」叫子が笑いながら答えた。
 パウロは黒い肌の日本人がいることに驚いていた。
「センタ(座って)」
 小宮とパウロはテーブルについた。(つづく)


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