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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第138回

ニッケイ新聞 2013年8月15日

エスペランサ

 小宮清一と東駅叫子は結婚届けをカルトリオ(登記所)にまだ提出していなかった。日本のように署名と捺印だけで結婚届けがすぐに受理されるのではなく、まず市役所官報に二人の名前が告示された。一ヶ月間、二人の結婚に異議を申し立てる者がいないかの確認が行われ、異議申立人がいないことが明らかになった段階で結婚資格が認められるのだ。
 カルトリオに結婚届けを提出する時も、新郎新婦側にそれぞれに保証人となる夫婦のサインが求められる。移住してきたばかりの小宮にもサンパウロに出てきたばかりの叫子にも、保証人になってくれる夫婦はいなかった。竹沢所長も単身赴任で、小宮の保証人にはなれなかった。
 官報に二人の名前が掲載され、当然だが異議を申し立てる者はいなかった。結婚資格は認められたが、あとは保証人をどうするかが問題だった。
 土曜日の朝、食事をしながら相談をしていると、パウロが起き出してきて朝食に加わった。
「二人して朝から何を深刻な顔をして相談しているんだ」
「結婚式の保証人になってくれる夫婦を探しているの。私もマリード(夫)もサンパウロに来て間もないから、知り合いがいないのよ」
「そんなことか」
 パウロにかかると、どんな難問も些細なことで、日なたに放り出した氷のように溶けてしまうように思えるから不思議だ。パウロ一家の貧しい生活は一瞬垣間見ただけだが、貧困に耐えて生き抜くためには、そうするしかなかったのだろう。
 小宮はパンを口に放り込み、カフェコンレイチで胃に流し込むと言った。
「誰か保証人になってくれそうな夫婦はいないか?」
「いくらでもいるさ」
 パウロはパンを頬張りながら答えた。
「市内に伯父夫婦と、すでに結婚した従姉がいる。立会人になってくれるよ。それよりも教会で式は挙げないのか」
 小宮は挙式など考えてもいなかった。サンパウロには友人らしき友人はいない。結婚式に招待するとしても竹沢所長とパウロくらいだ。叫子も同じようなもので、招待すべき仲間は数人くらいだった。
「叫子にウェディングドレスを着せてやらないつもりか。日本のサムライは女性には冷たいんだなあ」
 パウロは叫子に目配せをしながら冷やかした。小宮もそれにつられて叫子の方を見た。嬉しそうに微笑んでいた。
「式、挙げるか」
 叫子は黙って頷いた。
「そうと決まったら、一日も早くドレスを作ってやってくれ、シェッフェ。結婚の保証人は親戚に頼む。それで教会はどうする?」
 小宮も叫子も特に信仰している宗教があるわけではなかったし、ましてや毎週通っている教会もなかった。
「ブッディスタ(仏教徒)だけど、教会で式が挙げられるかい?」
「子供の頃から世話になっているパードレ(神父)がいるから聞いて見みる」
 こう言い残してパウロはいつものように自宅に帰っていった。
 ウェディングドレスを作るように言われたが、どこで作ればいいのか小宮にはまったく見当がつかなかった。
「レボーサス通りに行けばお店はたくさんあるよ」
 叫子はウェディングドレスをデザインから製作までを引き受ける店を知っていた。結婚を半ば諦めていたとはいえ、ウェディングドレスに身を包むのは女性の憧れであり、叫子にとっては、夢の一語では収まりきらない様々な思いがあるのだろう。式を挙げると聞いた瞬間から、叫子はどことなく楽しそうだ。(つづく)


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