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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第118回

ニッケイ新聞 2013年7月18日

 戦死した二世の家族の所在先は、サンパウロ総領事館ですぐに割り出すことはできた。児玉は土曜日、日曜日を利用してその取材を始めた。パウリスタ新聞の取材ではなく個人の取材なので取材車を持ち出すことはできなかった。児玉はマリーナとの会話学習を復活させるために、彼女を取材に誘った。サンパウロ市から遠く離れた町までは取材に行けないが、近郊ならバス代も安い。交通費は児玉が負担するという約束で彼女は取材に同行してくれた。
 日常会話くらいなら自信はあったが、ロードビアリア(バスターミナル)から目的の家まで、車でなければ辿りつけないような離れたところに住んでいる日系人も多い。各家に電話があれば迎えに来てもらうことも可能だが、自宅に電話のある家庭は少なかった。
 タクシー代は高く、ロードビアリアで目的地近辺に向かうトラックを見つけ、便乗させてもらうしかなかった。そんな時は児玉の語学力では不十分で、マリーナの力を借りるしかなかった。
 サントスからバスでさらに二時間ほど南下したイタリリという小さな田舎町に甲斐一家は住んでいた。その家の前を通るというトラックの荷台に乗せてもらった。
 ロードビアリアから二十分も走ると、輪切りにされた材木の幹に「ファゼンダ・カイ(甲斐農場)」と焼き印が押された表札が掲げられた門柱の前で止まった。
「ここです」
 マリーナの言葉に荷台から飛び降りて、マリーナに手を貸した。
 運転手に礼を言って、家に向かって真っすぐ伸びている道を進んだ。家の近くに来ると、マリーナは手を叩いた。訪問を告げるブラジル流の合図だ。
 家の中から三十代と思われる男が出てきた。マリーナが来意を説明した。男は家に戻ると、すぐに七十代半ばと思われる老夫婦が中から出てきた。
 家の前の庭には、マモンやマンゴーの木が茂り、木陰にはテーブルと椅子が置かれている。老人はその椅子に座るように児玉らに進めた。老夫婦も椅子に座った。
 児玉が名刺を取り出し、二人に戦死した二世について聞きたいと説明した。名刺を取ると、老人はじっと見つめて言った。
「負け新聞の記者が、今頃になって何が聞きたというのか?」
 老夫婦は終戦からすでに三十年以上も経過しているのに、パウリスタ新聞を負け組の新聞と呼んだ。
「敗(はい)の記者が何しに今頃……」老婆もくってかかってきた。
 終戦と同時に時間が止まってしまったのだろう。
 児玉は日本から来たばかりの新来移民であることを説明した。マリーナには通訳を手伝ってもらっていると説明した。二人はようやく納得した様子だった。
 戦前の移民は一九四一年八月に「ぶえのす・あいれす丸」がサントス港に四百十七人の移民を輸送したが、それが戦前最後の移民船だった。移民を降ろした後、そうした移民船に乗って二世たちは日本に向かった。
 留学が目的の二世もいたが、徴兵年齢に達し、徴兵検査を受けたいと日本に戻る二世もいたのだ。
 甲斐一家は長男を日本に送っていた。一人を日本に帰国させるだけでもその旅費はかなり高額だったことは想像に難くない。
「祖国日本のために御奉公するのにそんな金は惜しいとは思わん」
 戦前も、そして戦後しばらくの間は、広島出身の甲斐一家の一日は東方遙拝から始まっていた。
 終戦からすでに三十年が経過していた。今さら日本の敗戦を信じない勝ち組などいないと思っていた。しかし、老夫婦は最後まで日本が負けたとは口にはしなかった。
「パウリスタ新聞は今でも手に取って読みたくはない。日本が負けた、負けたと書いた新聞など死んでも読みたくない」
「どうしてですか」(つづく)


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