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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇前史編◇ (9)=知られざる南米国交の契機=日露戦争との隠れた繋がり

ニッケイ新聞 2013年7月4日

小村壽太郎

小村壽太郎

 この時代、日本が朝鮮半島を支配して、ロシアが満州・蒙古(モンゴル)を支配するという利害均衡の問題を『満韓問題』と言った。
 小村からすればブラジルへの移植民は、1823年以来の米国外交の基本方針だったモンロー主義、欧州に対する「アメリカ大陸縄張り宣言」に干渉することになり、最もことを構えたくない米国の逆鱗に触れる可能性があると判断しようだ。
 榎本武揚がわざわざ外務大臣を辞め、民間の植民協会を作って1897年に榎本植民団を送り出した時も、外務省内に同じような対立があったのかもしれない。
 米国は19世紀後半には先住民掃討完了を意味するといわれる「フロンティア消滅宣言」を出し、モンロー主義をかなぐり捨てて1890年頃から積極的に太平洋側への勢力拡大する時期にあった。1898に米西戦争(キューバ島、フィリピンを占領)で勝利し、ハワイ合併等次々に武力を振り回すようになった。
 日露戦争の直前の1901年、セオドア・ルーズベルト米国大統領は西アフリカのことわざ「言葉は穏やかに、ただし大きな棍棒を持ち運んでいれば、成功できる」を引用して中米に攻撃的な〃棍棒外交〃を展開し始めた。1903年にコロンビアからパナマを独立させてパナマ運河の工事・租借権を獲得、1903〜05年にはドミニカ共和国救済、1906年からキューバを2年余り占領下におくこと等だ。小村が「米国は中米の次は南米にも手を伸ばす」と読んでいてもおかしくない情勢だった。
 小村としては、日露戦争後に国際的地位が向上した勢いを利用して、まずは幕末の不平等条約改正を外交の最優先課題としていた。
 小村外相の反対は痛かったが、桂首相は共に重用した。小村外相の肝いりで、大日本帝国と大英帝国がロンドンで共催した国際博覧会「日英博覧会」(1910年4月〜10月)の総裁を大浦は務めており仲が悪かった訳でもなさそうだ。
 日英同盟(1902年)をテコにして日露戦争に勝利し、欧米列強と肩を並べたと自負する日本は、この「日英博覧会」で台湾・朝鮮・満洲の植民地経営について大々的に展示した。英国との通商活性化を狙って208万円の費用をつぎ込み、期間中の約半年間で835万人の観客が訪れる成功を収めた。
 この博覧会には海軍の誇る巡洋戦艦『生駒』の乗員800人も参加した。『生駒』はアルゼンチン独立百周年祭式典にも参加し、その帰途、6月10日に日本軍艦初のブラジル訪問艦としてリオに入港している。
 ここでも疑問がわく。1910年、笠戸丸の2年後当時に、どうして亜国とはそのような式典に参加するほど親密な関係があったのか? 調べてみると、やはり日露戦争に遡る深い関係があったことが分かった。亜国政府が建造中の軍艦を日本に譲った事実は、あまり知られていないようだ。
 それどころか、《日清戦争から日露戦争に至るまで、南米で日本が新たに条約を締結したブラジル(1895年)、チリ(1897年)、アルゼンチン(1898年)の三国がともに軍艦購入の交渉相手だったことは、条約締結と海軍増強作がつながっていたのではなか、と指摘されている》『アルゼンチン日本人移民史』(2002年、戦前編、16頁、FANA、以下『亜国移民史』)。
 国交を結んだチリに集団移民は送られていないし、亜国へも自由渡航者やブラジル入植組転住者が中心だった。
 日清戦争(1894〜95年)に勝利したあと、日本の仮想敵国はロシアに絞られていた。世界に冠たるロシア艦隊に打ち勝つためには、圧倒的に軍艦が足りない…。明治の人口過密や食糧確保問題に加え、そんな軍事的な背景と相まって、南米との国交は開かれていった。南米と日露戦争の隠れた関係だ。(つづく、深沢正雪記者)

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