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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇前史編◇ (13)=日露戦争大歓迎した伯国=実は海軍籍だった笠戸丸

ニッケイ新聞 2013年7月11日

船舶画家・野上隼人の描いた「荒天運行中の笠戸丸」(宇佐美昇三所蔵、『笠戸丸から見た日本』126頁より)

船舶画家・野上隼人の描いた「荒天運行中の笠戸丸」(宇佐美昇三所蔵、『笠戸丸から見た日本』126頁より)

 日露戦争後、米国で黄禍論が広まる一方、ブラジルはまったく違った様子で日本人に接した。
 水野龍は「海外移民事業ト私」(国会図書館「ブラジル移民の100年」サイトより)の中で杉村濬が駐伯弁理公使に赴任した1905年4月当時のことをこう記す。
 《日露の役は我か陸海軍の大勝利を以て終熄し、我が武勇は中外に普く宣揚せられ、杉村公使は恰も凱旋将軍の如き歓迎を受けつつジヤネイロに到着したのであつた。当時伯国が如何に日本の勝利に歓喜したかは、その頃生れた赤子にトウゴーレー・ノギなど、我が武将の勇名を附した事実に見ても判然しやう。現にブラジルの各地を歩いて見ると、しばしばトウゴーなどと言う名を有した青年に遭遇する。田舎者の青年でありながら、親から口伝への日露役に於ける日本の堂々たる勝利を述べるのを聞いてゐると今更感激を新らしさせられた》などと当時の伯国は大歓迎の雰囲気であったようだ。
 おそらく米国よりも、遥かに欧州に心情的に近かったブラジル人にとって、欧州の天敵である〃怖い白熊〃を退治した日本という島国に対して共感を覚え、一時的に強い敬意を持ったようだ。
 1908年、水野龍はそんな世界情勢の中で大量の移民労働者を送り出すという突破口を作った。黄禍論という台風が吹き荒れる北米に対し、ブラジルは日本人に無償で土地を与えて集団地を作ることすら認めた。当時、世界中探しても、そんな国は他になかったといえよう。その状況を最大限に活用して「日本村」を作ろうとしたのが青柳らの一派だった。
 最大の送り先であった米国がつまずき、代わりにブラジルが台頭した経緯から、日本政府は常に米国と対比して対伯送り出し政策を練った。米国での痛い教訓を活かそうとしたことが、のちの海興の移民対応に反映されていく——。
  ☆    ☆
 ブラジル移民と日露戦争とのつながりの最たるものは、第1回ブラジル移民を載せた「笠戸丸」自体がロシアからもぎ取った戦利品だったことだ。『笠戸丸から見た日本』(宇佐美昇三、海文堂、07年、124〜139頁)によれば、笠戸丸は日露戦争から第1回ブラジル移民までの間に、実は4回も中南米を往復している。
 中南米第1次航海(1906年)ではハワイで移民を降ろしたあとペルーやチリ北端まで足を伸ばし、第2次(1907年)と第3次(同年)ではペルー移民を運び、第4次(1907年10〜1908年4月)ではメキシコに炭鉱労働者を届けた。
 同年4月1日頃に帰国し、4月28日にはもう第1回ブラジル移民を載せて神戸港を出航した。6月18日にサントスに着岸した後、8月26日に横浜港に戻っている。後にもう一度リオに寄港しているが、まとまった数のブラジル移民移送は、実はこの1回のみだった。だが、それゆえに後世に名を残したのだから、やはり不思議な船だ。
 第1回移民の到着当初は脱耕や争議が相次いて「失敗」との評価に傾き、伯国移民は一旦中断されかかり、《12月21日、東洋汽船は呉で笠戸丸を海軍に返納し、以後、ほぼ一年間、笠戸丸の行動は不明になる》(宇佐美『笠戸丸』180頁)という経緯を辿った。ここまでの同船の〃生涯〃は南米移民事業と重なる。
 ここで気になるのは笠戸丸の船籍が「海軍省」にあった点だ。戦利品だから当然といえば当然だが、民間に払い下げられていてもよかった。事実、宇佐美も《私は笠戸丸のことを調べ始めたとき、なぜ海軍船が民間の移民を輸送できたのかと不思議だった。もっとも移民事業のような国家的政策では官と民は密接だった》(宇佐美『笠戸丸』196頁)と書く。
 笠戸丸の歴史自体に「国際関係を配慮して、民間という形を表に出しつつも、背後では国策的体制で望む」という東京シンジケートと同じ考え方があったのではないか。(つづく、深沢正雪記者)

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