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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(41)

ニッケイ新聞 2013年7月11日

 言われて改めて思い出したのだが、当時の邦人は、終戦の日までは、誰もが日本の勝利を信じていた。戦況の悪さに気づいていた人も奇跡が起こるのを祈っていた。そういう意味では、たしかに皆、戦勝派だったのだ。
 ということは、認識派史観が言う様に「終戦直後、日本が勝ったと狂信する者が大量に出た」のではなく、元々、皆、戦勝派だったのが、そのまま戦勝派であっただけの話なのである。以後、納得できる情報を入手した人から、徐々に敗戦派に転じて行ったのだ。
 従って「8、9割が勝ちを信じていた。10割近くがそうだった時期もあった」という説は、不自然ではないことになる。厳密には、時期的には、数字の配列は逆で「10割近くが勝ちを信じていた時期もあったが、それが以後9割、8割……と減って行った」のである。
 本稿で、筆者が先に、その日誌を多く引用した画家の半田知雄は、後に認識派の文化人として知られるようになる。が、日誌を読めば判るように、終戦少し前までは、最後の勝利を信じ祈り続けていた。そういう意味では、彼も戦勝派だったのだ。それが、終戦とほぼ同時に敗戦派に転じている。早期転向組の一人であったに過ぎない。
 ちなみに、泉靖一編著『移民—ブラジル移民の実態調査』によれば、終戦から7、8年後の1952、3年に調査したところ──。
 14・5㌫が敗戦派、56・9㌫が内心では敗戦を知ってはいるが、負けた負けたと言いふらすことを嫌っている人々、残る28・6㌫が頑固な戦勝派……という比率であった。
 ということは、この頃までには70㌫余が、実質的に戦勝派から敗戦派に転向していたことになる。残る戦勝派も、やがて転向した。
 すべての人が転向するまで長期を要したのは、最初に戦勝報が流れたためである。この点に気付かないと、筆者の洗い直し作業は、軌道を外れてしまうところであった。池田の鋭い指摘で、それは免れたわけである。

狂信に非ず、素朴なナショナリズム

 終戦時、戦勝派だった人々が、敗戦報でショックを受けた直後、戦勝報を知った時の喜びと興奮は、大変なものであった。
 前出の池田収一は、終戦時、前住地のノロエステ線リンスへ汽車で旅していた。敗戦報は、その途中、耳にした。リンスでの用件を終え、今度はポンペイア(パウリスタ延長線)の叔母を訪問すべく再び汽車に乗った。途中の駅で停車中、向こう(反対方向)から来た汽車が駅に入ってきた。その時、乗っていた日本人が、窓から身を乗り出して、池田に向かって叫んだ。
「日本は負けてはいない! 勝ったンだ!」
と。
 見知らぬ人であった。池田を同胞と認めただけで、嬉しさの余り、そうしたのである。当時の邦人の心理が、よく現れている光景である。
 戦勝報は、邦人社会の隅々まで短期間に広まり、殆どの人が、それを信じた。
 ノロエステ沿線のコロアードスに、サントーポリスという邦人の植民地があった。
 そこで少年期を送った梅田清(ブラジル生まれ)が、2007年、73歳の時に筆者にしてくれた話によれば、この植民地には400家族ほどの邦人が居ったが、殆どが戦勝派で、明確な敗戦派は一人だけであった。
 その敗戦派の老人は、息子夫婦と暮らしていた。夫婦が営むソルベッチ店は、老人のために、誰も客として来なかった。やむを得ず店を売って、一家は何処かへ引っ越した。すると店主が変わったその日から、お客がワンサと来た、という。
 サントーポリスに限らず、邦人の植民地では──戦勝派の占めた比率に多少の違いはあったが──何処でも、一時は、こんな具合であった。やがて敗戦派が増えて行くが……。
 その「こんな具合であった」のは、戦勝報の影響だけではなかった。人々の心の底に、素朴なナショナリズムが存在したからである。(つづく)



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