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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(59)

ニッケイ新聞 2013年8月6日

 特攻隊ではなく特行隊

 四月一日事件の直後、これも(以下、またも同じ表現の繰返しになって恐縮だが……)歴史上初めて、突如、表面に現れ、認識派史観Ⅶに転用された「特攻隊」という単語であるが──。
 これは、やや複雑である。
 まず、襲撃者自身の山下、日高そして蒸野の3人は、
「何々隊という様な名乗りをした記憶はない」
 と否定している。
 ところが、四月一日事件の参加者が、オールデン・ポリチカで行った供述の記録書類には、本家、谷口、吉田(いずれも故人)の分に、
「Toko‐tai」
「Kesshi‐tai」
 の文字が出てくるのだ。後者は決死隊の意である。
 右の三人は、野村襲撃班はトッコウタイ、古谷襲撃班はケッシタイ、と名づけたと供述している。
 彼らの同志で、決起組がサンパウロへ出発する時、キンターナに残った押岩は、日章旗に「決死報国、特行隊」と墨書して渡したという。
 特行隊というのは、特別行動隊の略で、特別行動とは襲撃を意味した。この隊名は、皆で話をしている時に決った──という。
 以下は筆者の推定だが、サンパウロでの襲撃実行の段階で、その対象は二人になり、決起組は二班に分かれることになった。
 そこで、特行隊のほか、もう一つ別の隊をつくり、決死隊と名づけた。日章旗に書かれた「決死報国」からとったのだ。
 しかし、隊名が山下、日高、蒸野の記憶になく、本家、谷口、吉田の供述書にしか出ていない──ということは、その名乗りが、襲撃に参加した10人全員には徹底していず、一部の人間しか知らなかったことを意味する。
 押岩が墨書して日章旗を渡した相手も、同志全員ではなく、キンターナ組の一部であった筈である。山下、日高は知らない、と話している。やはりキンターナの蒸野は日章旗を腹に巻いて襲撃に参加したが、これは、別人から贈られたものであった。

 ともあれ本家、谷口、吉田は、刑事の取調べの折「特行隊」「決死隊」のことを音(おん)で「トッコウタイ」と「ケッシタイ」と、言ったのだ。
 それが刑事から新聞記者に伝わった。無論、日本語の漢字ではなく、ポ語で、口頭で話したのである。
 時期は第二次世界大戦の直後であり、新聞記者は、トッコウタイと聞いた時、直ぐ日本軍の特攻隊を思い浮かべ、そのまま記事にしたのだ。神風という言葉を入れて解説をした新聞もあった。
 ところが、この勘違いから生まれたトッコウタイ=特攻隊=という言葉は、広く響きわたった。以後、連続して起こった襲撃事件の実行者は、皆、世間から、トッコウタイ=特攻隊=と呼ばれるようになる。当人たちの中にも、自分たちを特攻隊と思い込んでいる者もいた。
 かくして「特攻隊」は日系社会史上、不気味な光を放ち続けることになった。(ケッシタイの方は、何故か、消えてしまっている)
 決起組の中にすら知らない者がいた……その程度の隊名が、歴史的な存在になってしまったのである。
 認識派史観Ⅶの「特攻隊」という言葉は、右の様な経緯から生まれた勘違いを踏襲しているのである。
 なお、押岩が「決死報国、特行隊」と墨書した日章旗は、オールデン・ポルチカの刑事が記者会見で掲げて見せている写真が、当時のポ語新聞に載っている。(拙著『百年の水流』改訂版参照)
 そこには確かに「特攻隊」ではなく「特行隊」と書かれている。
 これは「特攻隊」は「特行隊」の間違いであることを、物的に証明している。(つづく)



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