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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇前史編◇ (20)=水野龍も記事で援護射撃=深く肩入れする渋沢栄一

ニッケイ新聞 2013年7月20日

 水野龍は『時事新報』(東京)の1912(明治45)年7月6、7日に寄せた「伯拉西爾通信」(上、下)の中で、《契約を締結しても、日本在住者はあとは容易だと思うかもしれないが、実際はこれからが大変だ。青柳氏はここまでに1年半を費やしたが、その間にも政治状況は移り変わり、いろいろな利害関係から運動も起き、契約調印するまでには惨憺たる苦心を舐めたという。折角契約したからには、なんとかしてそれ苦労が報われるように日本政府の当局者はしっかりと支援すべきだ》という、経験者ならではの忠告と激励の言葉を贈って、援護射撃ともいえる言動を見せている。
 さらに《過剰人口の始末にてこずりつつある我国の朝野は、よろしく今の時をもって百年の大計を掛て、一日も早くその実行に入るべきなり。ただしそれ一刻を遅れたら、一刻だけその競争に遅れてしまう。一刻の遅延はまさに百年の措置を誤ることであり、今の時をおいて他に待つべきの機会は断じて来ない》(意訳)と強く叱咤している。
 しかし青柳郁太郎も水野龍も、なぜ『時事新報』だったのか—との疑問がわく。移住事業に関心が深い新聞なのかと。
 これは、あの福沢諭吉が1882年に創設した新聞だ。
 水野龍は、福沢諭吉が創立した慶応義塾大学に学んでおり、いわば福澤門下生だ。坂本龍馬にも共通する土佐人気質ともいえる開国精神が、福沢の文明開化・脱亜入欧論という方向で磨きをかけられていた。
 調べてみると時事新報社の向かいには「カフェー・パウリスタ」1号店(銀座、1911年創立)があった。水野龍は1910年10月11日に聖州政府とコーヒーを日本に普及する契約を結び、それにもとづいて年3千俵のコーヒー豆を無償で受け取っていた。それを使ってコーヒーを日本に紹介するために作った日本初の喫茶店だ。
 「銀ブラ」(銀座でブラジルコーヒーを)という言葉の元になった店で、小説家が原稿を渡すための待ち合わせ場所として愛用し、数々の文学作品にも登場する場所だった。おそらく時事新報の幹部も打ち合わせで使っていたのであろう。そんな人脈を水野が青柳に紹介したのではないか。
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 1912(明治45)年3月の東京シンジケートと聖州政府の正式契約を受け、日本側ではこの拓殖事業を本格的進めるための組織作りが始まった。日本移民初の植民地建設の機は熟した。株式会社組織にしたほうが資金を集めやすいという段階になり、渋沢栄一(1840—1931、埼玉)が大きな役割を果たした。渋沢は株式会社組織による企業の創立・育成に注力し、「道徳経済合一説」を説き、生涯に500もの企業に関わった〃日本の資本主義の父〃といわれる人物だ。
 と同時に、アマゾンのトメアスー移住地建設を進めた「南米拓殖株式会社」や、崎山比佐衛が南米移住者中堅リーダーを養成する目的で設立した「海外植民学校」(1918年創立)にも賛同協力した理解者だ。
 東京時事新報(神戸大学附属図書館サイト)の1912(大正1)年11月9日付け記事「南米拓殖発起会」には、7日に東京商業会議所で、当時の蒼々たる経済人を集めて発起人会が開かれたとある。その直ぐあと、12月に第3次桂内閣が発足した。
 その桂首相兼外相は1913年1月13日に外相公邸へ渋沢栄一、高橋是清(日本銀行総裁)ら30余人を召集して「伯剌西爾拓殖株式会社」(資本金100万円)の創立委員会を作った。
 金融資料館「スペース82」サイトによれば、企業物価指数で試算した場合、1907(明治40)年の1万円は1998(平成10)年の1088万円に相当するという。つまり、当時の資本金100万円というのは、現在の10億8800万円に匹敵する金額だ。
 水野龍が笠戸丸を運航させるにあたって工面できずに四苦八苦したのが10万円だった。いかに本格的な体制をもって植民地造成に取り掛かろうとしたかがわかる。(つづく、深沢正雪記者)

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