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ざっくばらんに行こう!=ニッケイ新聞合併15周年記念座談会=(1)=戦後移住と邦字紙の関係

ニッケイ新聞 2013年8月29日

座談会に臨んだニッケイ新聞OB会のみなさん(左から時計回りに若松さん、田中さん、吉田さん、西田さん、田村さん、司会の深沢編集長)

座談会に臨んだニッケイ新聞OB会のみなさん(左から時計回りに若松さん、田中さん、吉田さん、西田さん、田村さん、司会の深沢編集長)

 ニッケイ新聞OB会(田村吾郎会長)の協力により、前身であるパウリスタ新聞、日伯毎日新聞時代から現在までの流れを振返る座談会を8月12日午前、社内で実施した。パウリスタ新聞は1947年1月1日創刊、日伯毎日はそこから分派した中林敏彦社長らによって1949年1月に創始され、奇しくもパウリスタが50周年を迎えた年に合併が決定され、翌1998年3月にニッケイ新聞として再スタートした。戦後の邦字紙の知られざる実際を吐露してもらうと同時に、厳しい現状、将来への課題などを忌憚なく語りあった。(編集部)

深沢=今ある邦字紙は2紙とも戦後創立ですね。ニッケイ新聞の前身であるパウリスタ新聞は1947年1月1日に創立で、サンパウロ新聞が1946年10月12日ですから2カ月半遅れです。今年は戦後移民60周年、まさにこの間は、みなさんのような戦後移民が邦字紙を支えてきたと思うのですが、吉田さんはどう思いますか。
吉田=
戦前移民の20万人に上乗せして、戦後に5万の移住者が来てるわけでしょ。本当にこれは読者層を分厚くしたよね。作り手も戦後移民だが、読者を増やしたことでも、戦後移住の意味は大きかった。
深沢=戦後の60年代、70年代ですね、分厚い読者層がいたのは。
吉田=
このおかげで我々は、何者にもしばられずに堂々と書いてこられた。これが小さな国の小さな新聞だと、物投げたら知り合いとか、金銭関係のある人にぶつかるようなとこでは、ろくな記事が書けない。
深沢=確かにそうです。
吉田=
メキシコの邦字紙の例があった。地元の文協を叩いたおかげで読者から不買運動を起こされ、スポンサーもなくなってついに廃刊と。メキシコはたかだか1万人とか2万のコロニアなんだよね。そう思うとブラジルの邦字紙はある意味幸せというかね。
深沢=恵まれた時代を過ごしてきましたよね。
吉田=
総領事館だろうとどこだろうと、堂々と丁々発止できるという発行環境にあったんだ。これは相当素晴らしいことではあるんだけど。
深沢=パ紙では80年代後半に「ションベン領事事件」が社会面トップを飾ったんですよね(笑)。サンパウロ総領事館の領事が酔っ払って、カラオケのテーブルにおしっこをしたのを記事にして、すぐにその領事は帰国させられたとか。まあ世界の邦字紙の中でも、かなり稀な環境だったんでしょうね。
若松=
そうだよ、ほかにこんなところないよ。
吉田=パウリスタは60年代が最高だったよね。気風も充実していたし、待遇も良かった。
深沢=蛭田徳弥社長(パウリスタ新聞創業者)時代ですね。
田中=
あの時は記者が多かったからね。
吉田=戦後移住者が一番増えた時期だ。
深沢=一番多い時なら記者は10人近くいたんじゃないですか。
田中=
10人はいないよ。うん、いなかった。
吉田=社会部の記者ってこと?
深沢=ええ、社会部の記者で。
田中=
10人はいなかったねえ。
深沢=でも7、8人はいたんじゃないですか。
吉田=
いつだったかの写真があるのよ。若い頃の私とね、神田、彦坂、上田、田村さん、田中さんに、敬吾さんと7人くらいだったかな。その7人で1ページだから、まあ楽だよね。
深沢=余裕ですよね。
田村=
第二社会面も作っていただろう。
吉田=それもあったけれど、いつもじゃないしね。中面をね、やらされたこともあったよ。「時間が余ったなら、中面作れ」ってね。一週間に一回程度ね。
田村=それが最盛期だったな。(つづく)

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