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ざっくばらんに行こう!=ニッケイ新聞合併15周年記念座談会=(3)=購読者数は最高で3万弱

ニッケイ新聞 2013年8月31日

西田康二さん(日伯毎日新聞)

西田康二さん(日伯毎日新聞)

■西田康二(にしだ・こうじ)=1937年3月、山口県出身。山口県立医科大学(現在の山口大学医学部)を中退し、58年に山口県人会の呼び寄せで渡伯。聖州バストス市内の飼鶏場に入った。日伯毎日新聞の西功法定社長(当時)に呼ばれ、59年から2年間同社で社会部記者として勤めた。退社後は農拓協職員、NECブラジル総務部長などを歴任。2000年以降に上野アントニオ元連邦下議(故人)の秘書になり、その所有だったニッケイパラセホテルの副社長代理も09年まで務めた。

深沢=西田さんが日伯毎日新聞に入ったのは何年でしたっけ?
西田=
いやあ、皆さんの話を聞いていると面白いですね。参考になるというか。私なんか、そんなに居なかったから。私は1959年から2年間いたんですけどね。日伯毎日の責任者(法定社長)をやっていた西功(いさお)っていう弁護士がいたんですよね。
深沢=ああ、このビルの上の方に法律事務所があった西さんですね。
西田=
私はブラジルに来てすぐバストスに入ったもんですからね。その関係で、バストス出身の西さんなんかよく知っておってね。
深沢=なるほど、バストスの西兄弟といえば有名ですね。その関係で日毎に入社されたわけですか。
西田=
本当はサンパウロに出てきたら南銀に入るつもりだったんですよ。それでその前に、西さんのところに挨拶に行ったら「南銀なんて入るなよ」と言われて、「新聞記者の経験をした方が良い」って薦められた。それで中林のカンタロウ(中林敏彦社長)のところに行ったら「君は写真機持ってるか」と聞かれて、「はい、持っています」と言ったら、「じゃあ明日から来いよ」ってさ。それが入るときのきっかけかな。
深沢=へー。その当時編集長は誰がやっていたんですか?
西田=
カンタロウです。
深沢=中林さんが社長兼編集長ですか。
西田=
そういうこと。
深沢=その時、記者は何人くらいいたんですか?
西田=
記者は割かし多かったですよ。椎野二郎さんだとか、一百野(いおの)雄吉(ゆうきち)さんもいましたしね。
深沢=たしか一百野さんは『南米時事』が終わった後に、日毎に入られたんですよね。
西田=
そうそう。
田村=椎野二郎もいたのか。
深沢=椎野さんはその後文協に…。
田村=
いや、アリアンサだ。
深沢=ああ、そうですか。話は戻りますが、70年代っていうのは購読者が一番多かった時代ですよね?
吉田=
(雑誌『セクロ』などに行っていたため)俺70年代がすっぽり抜けているのよ。その辺の事情はね…
深沢=田村さんは70年代、まさにパウリスタを支えていたんでしょ。
田中=
あの頃は、3紙の中でパウリスタが一番月給が良かった。
深沢=そうなんですか?
田中=
そうなんだよ。パウリスタは良かったよ。僕なんか、パウリスタやめる時はね、8万くらいだったですよ。
深沢=8万?
田中=
給料が。あの頃はインフレで毎月上がってたの。
深沢=クルゼイロの時代ですかね。
田中=
うん、クルゼイロ。
深沢=サンパウロに移っていくらになったんですか?
田中=
2万5千くらいかな。
深沢=2万5千!? 8万から2万5千。そんなに違ったんですか。
吉田=
敬吾さんあの頃、もうデスク(社会部長)で偉くなっていたし、長かったしで、給料良かったでしょ。
田中=偉くなったっていうより…、インフレが酷かったから。
深沢=70年代の購読者数ってどれくらいだったですか?
吉田=
さてねー。
深沢=だいたい2万5千とか、3万弱とかって聞いた覚えがあるんですが。3万くらいありましたか?
吉田=
3万はね…。
田村=そんなにないだろー。どうだろう(笑)
深沢=じゃあ2万5千から3万の間くらい、と。
田中=
〃自称〃なら3万あったと思うけどね。
深沢=でも、それだけの読者数を誇った70年代後半からだんだん減り始めて、80年代にはだいぶ減ってきていたんですよね? 90年代越えて、もう2000年近くなった時にはパウリスタも日毎も減って経営が苦しくなり、これはもう合併するしかないと。それで3紙時代からサンパウロ新聞とニッケイ新聞の2紙の時代になった。(づづく)



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