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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (46)=3度目の移民流入途絶=止めのレイス法案提出

ニッケイ新聞 2013年9月14日

レイス下院議員(三角ミナス文学会サイトより)

レイス下院議員(三角ミナス文学会サイトより)

 当時の日本側の「脱亜入欧」という意識は、日清日露両戦争の勝利によって確固たるものになり、第一次世界大戦も経て、日本人自身は西洋列強の仲間入りした気分になっていた。その中で「日本人の海外発展」という方法を巡って、満韓、南洋、南米かというせめぎ合いが行われていた。
 その一方で、西洋側では日本人を「仲間」とは思っていなかった。そんな違和感が「黄禍論」として、米国から当地にも伝わり日本移民にじわじわと悪影響を与え始めていた。
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 レジストロ地方は最初の日本人植民地なだけに、排日派ブラジル人政治家から、まっさきに標的にされた。『発展史』(上94頁)によれば、《日本移民攻撃演説が、初めて連邦議会に於いて試みられたのは、大正6年(一九一七年)のことで、演説者はリオ州の連邦議員マウリシオ・パイヴァ・デ・ラセルダであった。同議員は少壮ながら下院外交委員の一人であり、屈指の能弁家〜》とある。
 具体的には《イグアペ日本人移住地設置に関する新聞記事を見るや、直ちに其の契約内容に関する質問を提出すると共に、その理由を説明するため、六月十一日下院に於いて演説をなした。而して其の演説たるや、サンパウロ州に於ける日本の移民および植民事業を彼此混同せるのみならず、誤れる報道と自己の偏見に基づいて、日本人を理不尽に罵詈誹謗せるものであった》(同94頁)とある。
 ラセルダ議員は、当時創立したばかりのブラジル共産党の幹部で、共産主義、無政府主義者の弁護者として知られる。つまり「スト破り」として聖州の大農場主らが導入した日本移民に良い印象を持ってなかったと思われる。彼の息子が、戦後、ゼッツリオ・バルガス大統領を厳しく追及して自殺にまで追い詰めたと言われるジャーナリスト、カルロス・ラッセルダだ。つまり、父親は日本移民を糾弾し、その日本移民を抑圧したバルガスを息子が糾弾したといえなくもない。だとすれば不思議な因縁だ。
 そんな1921年、聖州政府農務長官ヘイトール・ペンテアードは翌年分からの渡航費補助を再び拒否した。日本移民失格宣言だ。《言語、風俗、習慣が違うので使用上不便である上、移動性が激しい。一年内外で出てしまうから葡、西、伊の移民の倍も費用がかかる。引き合いにあわないというのである。かくて1923年には1人の補助移民もいなかった》(『発展史』上318頁)。
 つまり、笠戸移民の失敗で中断、その後の1万人の試験導入後に再中断、今回で3度目の途絶となった。「伯剌西爾移民組合」が聖州政府と1916年に4年間で2万人導入する契約が終わった後、同移民組合を継いだ海興は、同様の補助支援を聖州農務長官に運動した。
 しかし、1922(大正11)年の州補助移民1万人枠はポルトガル人、スペイン人、イタリア人で占められていた。ドイツ人、オーストラリア人、日本人には1人も割り当てがなかった。
 日本政府は移民会社がしていた手数料を全廃し、海興にその分の報奨金を交付した。移住者負担を軽減するために、船会社に交渉して船賃を従来の250円から200円に値下げさせ、郷里から乗船港までの汽車賃半減など利便を図った。
 そんな1923年10月22日にミナス州のフィデリス・レイス下院議員から、日本の流入に止めを刺すような、1回目の排日法案の提出があった。当時、米国が国内の黒人をブラジルに移住させる動きがあり、それに反抗した議員らが《欧州移民奨励を表看板とし、黒人移民を全禁する条文内に、黄色人移民制限を織り込んだもの》(『発展史』上97頁)だった。
 この「レイス法案」に対して、積極的に反対意見を出したのは聖州上院のパドア・サレス議員で、イグアッペ植民地設置契約を結んだ時の聖州農務長官だった。その他、フォンテス・ジュニオール、ジョアン・マルチンスらの日本移民を利する演説も行われ、日本移民制限反対が聖州上院で可決された。(つづく、深沢正雪記者)

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