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音楽で日伯友好の懸け橋に=日系三世 ロベルト・レゴナッチさん=孫の日本語に菊地啓さん涙

ニッケイ新聞 2013年11月6日

写真=ロベルト・レゴナッチさん












 「日本に帰ると、ほっとする。死ぬまで日本にいたい」。浅黒い肌に大きな目。外見はブラジル人の日系三世、ロベルト・レゴナッチさん(36)だが、口から飛び出すのは流暢な日本語だ。カラーマーク社(石川県)の海外事業担当として歌手・今井つばささんを売り込むため、全伯を飛び回る。「6年間、祝日も土日もほとんどなし。仕事やってないと、逆に疲れるくらい」。音楽の道に進むことが、小さい頃からの夢だった。「今は夢を追うより、夢を生きている」と目を輝かせた。

 家賃の取立てに追われる貧しい子ども時代をすごしたというロベルトさん。13歳で両親が離婚し姉弟とも離れ離れになったが、父親がフィアット社に入社した途端生活は一変。別荘、車、何でも手に入る快適な生活がやってきた。しかし、「これじゃあ将来が見えている。親父のいない場所で、自分の力で何かをやりたい」とブラジル脱出をきめた。
 1997年、20歳で渡日し、久保田製作所(茨城県)と村田製作所(石川県)で働いた後、04年にライブハウス「DNAロックカフェ」を開店した。石川で知り合った外国人留学生と結成したバンド「DNA」は地元の人気者になり、2008年当地であった移民百周年イベントにも呼ばれた。ソニー・ブラジルでCDデビュー後プロデューサーに転向し、今に至る。
 「はじめは日本語を一言も話せなかった」というロベルトさんだが、今は読み書きも難なくこなす。訪日後4、5年がたった頃、実家に電話を入れると、祖父の菊地啓さんは「初めて孫とまともに話せた」と電話口で声を詰まらせたという。菊地さんはリベルダーデに住み、シネマ屋や指揮者、日系ラジオ放送のアナウンサーとして活躍した人物だ。
 「それから1年後に帰省すると、じっちゃんが怒涛のように俺に話すのを見て、家族皆呆然とした」と亡き祖父との思い出を回想した。
 今月は、アメリカで自身のアルバムもリリースする。夢は、「売るために作る〃工場音楽〃(型にはまった音楽)だらけの日本の音楽を、7〜80年代の本当の音楽に戻すこと」。大好きな日本での未来を見据え、やる気をたぎらせた。

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