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県連ふるさと巡り=開拓古戦場に思い馳せる=パライバ平野と聖北海岸=(3)=「コロニアに役立つ事せよ」=中央線触媒に珈琲耕地西進

ニッケイ新聞 2014年3月29日
鐘ヶ江久之助(タウバテ文協50年史『盆栽』8頁)

鐘ヶ江久之助(タウバテ文協50年史『盆栽』8頁)

出光興産サイトから「お客様センター」に、出光佐三の養子に「政美」がいたかどうか問い合わせると、翌日にメールで返答があった。《出光佐三の個人的な情報であるため、弊社よりお伝えすることは致しかねます》とのこと。残念ながら証明は難しいようだ。

小田二三男さんは「出光佐三はもともと叔父にあたる方で、父が四男だったことから養子に入った。でも、出光家のあまりに豪華な生活振りに慣れることができず、貨物船に乗ってブラジルに飛び出してしまった。プロミッソンに入植し、その時代に総領事館で苗字を小田に戻した、と聞いています」という。

《政美は1917年渡伯の福岡県人で、玄界灘の四股名で相撲界にならした》と(『富流原』86頁)にも書かれる有名人だ。

ちなみに出光創業百周年の折り2011年6月20日の新聞広告には、明治生まれの気骨ある出光の名言「日本人にかえれ」との言葉が掲載された。出光佐三と同じく日本への愛情が強く、皇室崇敬が篤いコロニアからも共感を呼ぶ言葉だろう。

小田さんは「父は鈴木貞次郎さん(笠戸丸以前の渡伯者)と親しく交際があり、いつも水野龍、上塚周平、平野運平ら4人のことを話していた。遺言は『コロニアのために役に立つことをしなさい』でした。私はそれを少しでも実行しようと思い、今までやってきた」と文協に土地を寄付した動機を語った。「日本人として恥じない行動を」―確かに、そんな父政美の気持ちは、どこか出光佐三を思わせる。

小田さんは「ふるさと巡りのみなさんが真っ先にタウバテに来てくれ、最初に黙とうしてくれた。本当にありがたいと感激しています」と感謝の言葉を繰り返した。

 日本の文明開化は明治(1868年)と共に始まったが、ブラジルは一足早く1850年代だった。300年間も続いてきた奴隷輸入が、英国の圧力で1850年に禁止され、そこからイザベラ女王による奴隷解放令(1888年)までが、社会構造の大変革期だったからだ。

ブラジル初の鉄道はリオ北部のマウアから避暑の都ペトロポリスのライス・ダ・セーラ間(約15キロ)まで、1854年に開通した。ちなみにサンパウロ州最初の鉄道は1867年、サントス=ジュンジャイー間で明治維新の前年だった。

それに次いでセントラル線(以下、中央線)は翌1855年にリオのペドロ二世駅から敷設が開始され、1860年にはサンパウロ市まで開通した。延長は約500キロもあり、豊饒なパライバ平野の産物をリオやサンパウロ市に運び、ドンペドロ二世皇帝のお召列車も通った。

戦前にはミナス方面など七つの支線を持つまでになり、まさに国家経済の背骨を支える「中央線」の名に相応しい存在となった。タウバテはサンパウロ市から130キロ、リオ市まで280キロ地点に位置する古い駅町だ。

米国の開拓時代は「ゴー・ウエスト!(西へ)」を標語に拓いていったが、ブラジルもやはり西へと広がった。1800年頃にリオ側から注目され始めたコーヒー産業は、1850年頃には農業の旗手とみられるようになり、リオから中央線が西方に開けるのにしたがってコーヒー耕地がサンパウロ州に広がっていった。世にいう〃オーロ・ヴェルデ(緑の黄金)の時代〃だ。

『四十年史』(香山六郎編著、1949年、294頁)にはこの鉄道が文明の〃触媒〃の役割を果たしたとする。《カフェー栽培の伸び拡がった足取りを辿ると、それは鉄道の延長と歩調を合わしている。近代文明を運んで行くレールが百粁のびる毎に、珈琲の緑なす波も亦百キロひろがつて行った》とある。その後、ようやく日本移民の時代となる。(つづく、深沢正雪記者)

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