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島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記=特別寄稿=日高徳一=(3)=有罪は決行犯ら十数人のみ=信念不変の人を多数送致

私達が島で生活した頃は、墓地の周囲には形ばかりではあるが柵と十字架があった。その後、半世紀程して機会があり、山下博美君と島を訪問する事があり、墓地に行った。訪れる者もないのか、草木は茂り十字架も柵も朽ち、レトニア人ばかりではなく、囚人も埋まっている筈だったが、ただ雑草の中に白骨が転がっているだけだった。国を追われた人達、罪を犯したとは云え看る人もなく死んだ者の事を想い、散らばっている白骨を二人で拾って砂地に還し涙したものだった。

さて、前置きが長くなった。こんな暗い歴史のある監獄島に、戦後のある時期、170名の日本人が送られることになったのである。
島に送られた170名の内、十数名が法を犯した者で、あとの人達は自分等に宿を貸したり、仕事をさせた人と、多くの人は大体次の様な立場に有った人達であった。
国交断絶が(註=1942年1月)布告される以前からも、この国にもナショナリズムの風が吹き、日語教育の禁止、もちろん集会なども禁じられ、我々は限られた範囲内での生活を強いられていた。その後、終戦直後には、国交こそ回復していなかったが、取締は戦争中より緩やかになり、各地で気心の合った者達が集まり、会ができる様になったのである。
多くの移民がわが祖国に還る事をねがっていて数年の空白時代を埋めるべく、日本精神の育成の主旨で各地にいろいろな名称の団体が結成されたのであった。州内だけでも団体として主なものは「在郷軍人会」「臣道聯盟」「精華聯盟」「愛国青年会」等、十指に余る程の精神修養団体が名乗りを上げたのである。
1945年8月、無条件降伏の報道が流れ、その様な事は夢にも思わなかった事であり、コロニアは唯々呆然となったのである。前日までの大本営発表では大戦果の発表、本土決戦を唱えていたのに、無条件降伏とは信ずることはできなかったのである。
その様な有様で邦人の8割は、或る時期まで「最後の勝利は我が国にある」と固く信じていたのである。
もちろん両派の反目はあったが、口論とか争いはなかった。月日は忘れたが、戦前から在伯同胞の指導者と認められていた次の7名(脇山甚作、古谷重綱、宮坂國人、山本譽誉司、蜂谷専一、宮腰千葉太、山下亀一)が祖国の無条件降伏を記した書類に連名で署名し、各地のコチア産組の支店を通じて配布したのである。その書が出回って、祖国の滅亡を唱えていた者の一部は勢いを得て認識運動が盛んになり、果ては当時の日本人として許すことの出来ない国家や皇室に対して無礼な言行を敢えてする者が出る様になった。
その様な原因をつくった7名に責任をとらすべく、私達10名が固く約束、聖市に於いて決行することに至った。それが元となり、各地で同種の事件が起こるとは思ってもいない事であった。その様な事件がパウリスタ、ノロエステ、ソロカバナ各地に起きたのである。
その後、諸団体に弾圧が加わり、責任者は次々と拘引され、事件との関係を調べられた。その嫌疑が晴れると、シベリア収容所から出所する時に人によってはソ連に忠誠を誓う書類を署名した様に、敗戦を認める書類に署名し、あるいは〃踏絵〃(註=警察が御真影などを踏ませて転向したかを試した)などをして出所した。その意に従わなかった人と、一番強硬であった聯盟の指導者が残り、我等と共に島送りとなったのである。
その様な事でサンパウロ事件の10名の外、地方の実行犯数名、その外は我々に便利を図って下さった方など79名が国外追放となり、46年7月11日、第一陣として島に送られた。その後4回にわたって、白人系によって組織された拳銃を携帯した自警団や下級官憲達による暴行や拷問に負けず、信念を変えなかった人達が送られて来て、一時は3棟の獄舎は満員となったのである。(っづく)

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