ホーム | 連載 | 2014年 | 島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記=特別寄稿=日高徳一 | 島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記=特別寄稿=日高徳一=(6)=山内「踏絵より死を選ぶ」=各人技量を発揮して生活向上
山内健次郎さん(父)、房俊さん(山内健次郎著『世界大戦の余波』より、自家版)
山内健次郎さん(父)、房俊さん(山内健次郎著『世界大戦の余波』より、自家版)

島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記=特別寄稿=日高徳一=(6)=山内「踏絵より死を選ぶ」=各人技量を発揮して生活向上

 本家さんは自分達の同志であり、山内さんは臣道聯盟ツパン支部の幹部の子息で、嫌疑をかけられ父子ともオルデン・ポリチカ政治警察)に連れて来られ取り調べをうけた。父親が聯盟員と云うだけで、釈放するのに、各地の警察内で我が物顔にしていた自警団、彼らの発案であろう踏絵、敗戦を認識する事を誓う書類に署名する事を強要させられた。
 山内さんは「その様な事をして釈放されるより死を選ぶ」とオルデン・ポリチカの3階の窓から飛び降りようと向かう直前、取り押さえられた。父親がツパンの生長の家の講師をして居られた高保さんの子息忠雄君等、ツパンの生長の家の信者と共に島に送られたのである。

産爺

 日本人の名を高めたのは数多くあったが、ついでにもう少し書こうと思う。ポンペイヤ出身の渡辺辰雄さんの事である。
 彼は田舎に居る頃から、頼まれれば近所の現地人の健康上の相談にのり、自分の手ではどうにもならぬ場合は病院に連れて行く、と云う様な世話をして居られた。島の病院のドットール・ブリゾーラ氏の助手として働く事になり、皆御世話になったものである。
 ある時期、海が荒れ15日毎にサントスから島に物資を運ぶあの木造船も来ず、従って本土との交通は止まり、日用品どころか食料品まで不足しだした時の事である。
 島の警備隊長の夫人が初産で苦しんでいた。一人しか居ない医師はサンパウロに出張して居られ、電報で知らせた様だがウバツーバで足止めとなった。隊長の部下の夫人達が集まって来たらしいが騒ぐばかり。今ならヘリでと云う事もあるが、その様な手段のない時代だった。
 ところが誰が話したものか、渡辺さんが自分の子供6名の他、多くの妊婦の世話をした事を隊長が知った。彼が一日の勤めを終えて2号室に帰って休んで居ると、「所長が呼んでいるから来る様に」と看守が渡辺さんを呼びに来た。
 本人どころか皆何事だろうと案じたが、看守が来て「ワタナベは産爺として頑張っている」と伝えてくれた。渡辺辰雄さんの技量を知らぬ頃であり、相手は隊長夫人だけに、無事に済めば良いがと心配したものだ。
 翌日笑顔でかえって来て「難産であったが無事女児が生まれた」と話し、一同よろこんだものである。
 その他、島で使用していた地引き網を日本式に改良して漁の成績を上げた。バストス出身の川端嘉衛門(かえもん)、ルセリヤ出身の河島作藏さんは菜園の責任者であった。それまでシュシュとコウベしかなかったのを、不使であった灌水を湧水地から水溝を掘り畠の中に通す様にし、種を取り寄せ、市場に出しても恥ずかしくない野菜が、島全体の食卓に上る様になったのである。
 マリリアの吉田武夫さんは教会の広場にも、トール(トーラ)を利用してパノラマ式の動くキリスト降誕の様子を製作され、信者が遠方から見に来る程の出来映えであった。
 これらのほか、数多くの日本人の特質は沢山あった。その反面、元気な者が多かったのでそのほか種々な事があったが、物語が進むにつれて書く事にする。

モーロ・デ・パパガイオ

 前にも書いたが、総てをまかされる様になったのは、或る期間が過ぎてからであった。鳴り物入りで凄く宣伝されていたので、島について職場が正式にきまる前、若者はモーロ・デ・パパガイオに行く様、まず命ぜられ、島の中央に位置する煉瓦工場近くに連れてゆかれた。
 見ると幅30メートルの、100メートル近くの禿げた急坂がある。そこは強制労働所であり、坂をのぼり切った奥に薪を切り出す森があり、そこで集められた薪を投げ落とすのである。
 薪を投げるので禿げていて、昇るのには至難の様であった。その坂を昇る様、看守が命じたのである。(つづく)

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