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連載小説=日本の水が飲みたい=広橋勝造=(157)

 その夢幻像には、日本料理店の床の間に寝転んだ男の心霊画像と同じ画面が結像した。
 黒澤和尚は御鈴を『チーン、チーン、・・・』と五回鳴らして『なんまいだ、なんまいだ、なんまいだ』と小さな声で呟くと『金剛頂経』のジャバラ状の経典を閉じ、間を入れず、『オンアー、ボー、キャーベー、ローシャ、ノーウ、マーカー、ボウダラー、マーニ、ハンドマ、ジーバラ、ハーラ、バリタヤ、ウン、・・・』口伝で伝えられた密教の呪文を唱え始めた。
 黒澤和尚の声は、賛美歌には程遠いが、宇宙にまで届けと高音と低音を同時に発声してシンセサイザーの如く響く不思議な声であった。
《先輩、あの魚市場で聞くあの競り声は?》
《競り声ではない、当事者しか知る事が出来ない密教の呪文であろう。凄い力だ。既に、男の居場所と同調したようだ》
 夢幻像の画面が替わり、頭に包帯を巻いた男が畳に仰向けに寝転んでいる像がフェード・インで現れた。
「あっ、森口だ!」
 中川記者のその叫びで夢幻像が一旦乱れたが、すぐに元に戻った。
「どこだここは?」
《しー、ジョージ殿、静かにしてくれぬか》
《先輩、これは?》
《これは、中嶋和尚の好きな西遊記に登場する天眼通(てんげんつう)の術と、黒澤和尚の密教でも一番難しい奥義の千里眼の術との協同作業じゃ、お見事じゃ!》
 古川記者が夢幻像から目を離さず、メモしながら報道を始めた。
「森口が畳に寝ています! この場所は日本か? 着物姿の金髪の女が艶かしい膝を板の間につけて襖を開け、丁寧にお辞儀をして入って来ました。盆に、氷に浸した酒の小ビンと、陶器製のコップと、同じ模様の小皿につまみを乗せて入って来ました。この陶器の独特の模様はどこかで見た事が・・・、これは一度取材したクーニャの町の有名な陶芸家の作品です! あっ、畳に寝転んでいた森口が身を起こし、杯を取って女に突き出しました。女は真っ白いしなやかな手で酒を注いで・・・、うぁ~、あのボリュームある胸と腰の膨らみからして、ブラジル女性に間違いありません。酒ビンには東山農園の『東麒麟』のレッテルが貼られています。これらから察すると明らかにブラジルです。座敷がある日本料理店となると、きっとサンパウロでしょう。しかし、貧乏記者には滅多に入れず、どの料理店か想像できません。畜生!」
「中嶋さん、あの森口を捕らえる事は出来ないですか」
 ジョージの質問に中嶋和尚は額の汗を拭きながら、
「『他神通』(たじんつう)と云う術で、他人の行動を操れると聞いています。黒澤和尚の密教の力を借りればなんとか出来るかもしれません」
「中嶋和尚、『他神通』の術は、今の何十倍ものエネルギーが必要です。それに、あの術は行動だけでなく感情までコントロールして危険です。もし力負けして失敗すれば悪い影響が倍になって跳ね返ってきます」
 取材熱心の古川記者が、
「人の意識を遠隔操作するのは危険なのですか?」
「危険です。幼稚な宗教指導者が信者の意識をコントロールして集団自殺やテロ行為をさせたりして、悪用の例は数えきれません」
「一種の催眠術ですか?」
「そうです。それも、密教での『他神通』は、超心理学でも立証する事が出来ないテレパシーを用いて遠くの相手に催眠術を掛ける『祈祷』の技です。この技は悪用されると『呪い』や『怨念』となり危険なものですから極意を盗まれないように経典には記されず。選ばれた僧だけが口伝えで学び、厳重に管理され、秘密を守っているのです」
「危険だが、なんとか出来ないんですか?」

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