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連載小説=子供移民の半生記=家族みんなで分かちあった=異郷の地での苦しみと喜び=中野文雄=1

第一節 運命

 航海最後の夜――。もう暫くしたらブラジルの大陸が見えるだろうという人々の声が聞こえる。2カ月近くの長く単調な航海にうんざりしていた上に、目的地ブラジルを見たいという好奇心。それにブラジルでは真夏。船室からのがれ甲板で涼風に吹かれたいとの思いは、誰しも同じ。いつもなら子供が甲板に出る事は禁じられているのだが、明日はサントス上陸だと言うので、その時は大目に見られ、甲板は人だかりだった。
 その内に「ああ見えた!」と大声で叫ぶ人がいたが、一向にそれらしい物は見えてこない。「本当だ、本当だ」と同調する人も居るが影すら見当らない。甲板上では「見えた、見えない」と張り合っている。その騒ぎで暑さが消え飛んだ様な気がする。そんなこんなの大騒ぎがしばらく続き、三々五々輪を作り、世間話をし始めた頃に、闇を透かしてぼんやりと大陸が見えてきた。
 「サントスだ、サントスだ!」と人々が叫ぶが、闇は深く、まだはっきりしない。次第に夜明けが近づき、島影らしい姿がはっきり見えてきた。アフリカ丸は島影には近づかず、大陸にそって南下していった。右手に見える大陸に燈火が見えたが、それも束の間、すぐに消え去った。あたりが明るくなると、大陸の木々の姿まで鮮明に見えるようになった。その内、汽笛がなり「一時間後にはサントス港に着きますので上陸の用意を整えて下さい」と、二回続けてアナウンスがあった。
 「さあ、上陸だ、上陸だ」と、船室にあった身の回り品を入れたトランクや信玄袋を持ち、おのおの年寄りや子供の手を引きながら甲板の指定された場所に集まっていった。
 サントス港には大小様々な船が、それぞれ誇らしげに一番高いマストと船尾に自国の国旗を揚げて入っていくが、どれも見知らぬ国旗ばかりで日本船は他には見当たらなかった。なんと言っても日本の国旗が一番きれいだ。白地に気高く真っ赤な日の丸は、愛国心のシンボルだ。「この気高い日の丸を背負って、日本人の心をブラジルで輝かすのだ」との決心を忘れてはなるまい。
 当時僕は13歳。44歳の父と43歳になろうとしていた母、18歳の兄良徳、10歳の妹みゆき、9つの好明、末っ子で3歳の稔、他に9つのたけしと5つのみつる、合計9人の家族構成でのブラジル移民だった。時は1935年1月23日。生まれて初めてブラジルの土を踏む、生涯の記念すべき日だ。
 アフリカ丸は水先案内の小船に引かれ岸壁に横付けにされた。下船用の階段が繋がれ、広い甲板は許可を待つ人々の長い列で埋め尽くされていった。船員の誘導に従い、ゆっくりと下船し、入国手続と税関の荷物検査を済ませると、待期中の政府差し向けの特別移民列車に乗った。
 前列3列車がパウリスタ延長線、中2車はノロエステ線、後列3車はモジアナ線と、列車は配耕先順に客車が決まっていて、客車毎に切り放して行くのだそうだ。が、汽車はなかなか出発しない。税関の荷物検査が長引いているためらしい。
 その間に、朝食用としてパンの配給があった。肉製品もあったらしいが、臭くて食べられた物でなく、皆捨てたらしい。僕自身はどんな物だったのか丸で記憶にないのだが、ともかく腹ごしらえは出来たらしい。どの位時間が過ぎたか知らぬが、サントス駅を出てじきに夜になり、汽車は配耕地へと進んでいく。その汽車が政府差し向けの特別移民列車と聞いていたので、少しはましなものだと思っていたが、座席は板張りで長い時間乗っていたら腰の骨どころか背骨まで折れてしまいそうなひどい代物。学校で地理の時間に、南米ではアルゼンチンがまあまあの三等国だと教えられたのを思い出した。だとしたらブラジルは四等国という所かと思わずには居られなかった。
 こんなぶ厚い板でどのくらい乗っていなければならないのか知らぬが、腰よりも(人聞きが悪いので大きい声ではいえないが)尻が痛くてたまったものでない。などと考えていた矢先、今まで無風だったのが急に風が吹きはじめ、汽車の中に煙が吹き込んできた。窓を閉めろとの大騒ぎしながら皆窓を閉めたはずなのだが煙はどんどん入り込んでくる。

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