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連載小説=子供移民の半生記=家族みんなで分かちあった=異郷の地での苦しみと喜び=中野文雄=9

 ジャルジネイラが着いたのは午後4時頃だった。久さんは早く帰りたいのだろう。4時過ぎでないと便が無いので、それまでに鶏を箱から出して水を飲ませねばとも話していたが、箱の中で騒いでいる鶏は出したら逃げるだろうと思い、箱から出せず、餌もないが1日位では死なないからと、そうこうする内にもう時間だと久さんは帰ると言い、荷物があるので用心しなさいと言って別れた。
 急に淋しくなったが、後を追っても行けず、鶏の番と焼いた鶏が悪くならぬだろうかとの心配をしながら気を紛らし、家で皆が帰ってくるのを待っていた。
 一カ月も家族と別れて暮らした事はなかったし、家の者も同じ気持だろうと思い、早くたくさんのお土産を見せて、皆の驚き喜ぶ顔が見たい。そればっかりが楽しみだ。
 鶏を飼って卵が食べられる様になり、体力を付ける為には、おやじが三坂さんに相談する様に考えていたけど、幸い5羽もの鶏を頂いた。鶏たちが一日に卵を三つ産んだとしても、親子7人にいとこが2人だから、2日に1個ずつ食べられる勘定だし、それが元でだんだん増えたら、近い内には毎日食べられる様になる。そのうち、心にゆとりが出来、活力も生れるし自然と体力も気力も付く。すると今までの心配が消え飛んでしまう。現に将来が楽しく腹の底から力が湧いて来ているのを感じている。
 もうお日様もしずみはじめ、皆も帰ってくる時刻だ。このお土産を見たらびっくりして手を取り合って喜び、大塚さんに感謝するだろう。それにもう一つの楽しみがある。小遣にと下さった封筒がある。真白いホクホクのパン、見ただけで涎の出そうなこんがりと狐色に焼かれた鶏の丸焼き、箱に入っている5羽の鶏。早く見せたい、早く見せたい、と皆の帰りが待ち遠しい。
 ようやく今まで静かだった辺りが、仕事帰りの皆のにぎやかな声と足音で一変した。
 待ち遠しかった皆の顔を見つめたまま、「ただいま」の声も出ない。一番先に来た母は、怪訝そうに箱の中の鶏たちと私の顔を穴の開くほど見つめ、父や兄弟従兄弟たちも何事かと見比べていたが、お互いに立ちつくしたまま、しいーんとなり箱の中の鶏たちだけがごそごそと騒いでいた。
 突然母が「文しゃん!」と僕に説明を求めるかのように呼びかけた。その声に促され、やっとお土産として持って来たものの説明をし始めた。パンの袋を開けてふっくらとした大きいパンを取り出しながら、昨日焼きたてのパンである旨を話すと、母は大きく見開いた目に驚きを隠せず、無言で早速汲み置きの水で汚れた手と口をゆすぎ、石油箱の上に祭ってある仏壇に、一つの大きいパンを捧げ、灯明を灯し、家族で立ったまま拝んだ。
 その後、大声で稔やみつる、みゆき、たけし、好明を呼んで外のパンを取り出し、手でちぎって「食べなさい、おいしいだろう」と、順々に微笑みながら、パンを同じ様に分け与える母の目には、涙が一杯たまっていた。母の涙は、ブラジルに来て5カ月近くお菓子のかけらも買ってやる事の出来なかった、実に切ない気持の涙であったろう。
 儀式めいたお祈りの後で、兄貴とおやじは薄暗くなった表で鶏を1羽づつ箱から出し、日本から持ってきた荷を解いた紐で、逃げられぬようにしばっている。母は弟や妹、いとこたちにパンをあげた後、また嬉しそうに、にこにこしながら焼鶏を切って食べさしているが、またもや目には涙があふれていた。

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