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ガウショ物語=(11)=底なし沼のバラ=<3>=襲いかかる大男から逃げる娘

伝統的な衣装を着たガウーシャ

伝統的な衣装を着たガウーシャ

 ちょうど、こうした出来事が起こっているころにアンドレ軍曹がやって来て、間もなく結婚の噂が広まったというわけだ。
 シッコンは口から泡を噴くほど憤慨した……馬に八つ当たりし、犬どもには鞭が飛び、弟たちは平手打ちを喰らい、母親にまで乱暴な口を利いた。
 父親のシッコ爺さんにだけは遠慮があった。なぜなら、穏やかな見かけによらず、いざという時には意地を見せる男だったからだ。
 その日――むごたらしい事件が起きる前日だったが――シッコ・トリステの家で、この辺りを通りかかった旅の伝道師による洗礼式が行われた。マリアノの一族も招かれた。その夜は、菓子類がふるまわれ、ギターを弾いたり、唄に合わせて踊ったりもした。
 そんな中、シッコンはマリア・アルチナにしつこく付きまとっていた。
 晩餐や祝い事は次の日にとり行うことになった――つまり事件が起きた日だ。
 お前さん、信じないかもしれないが……、その朝は早くからキツツキが囲い場の柱や、馬の手綱を括る杭にやってきて啼きさわぐ……はては屋敷の横壁にまで穴を掘るしまつだ。犬どもは荷車の下の土を掘り返すし……おまけにマリア・アルチナは寝室の壁とベッドの枕元の間で、大きな黒い蝶々を見つけた。だれ一人そいつが入るのを見ていないというのに……。
 日が昇るとすぐ、マリアノと婆さんの一人は、宴会の準備の手伝いにトリステの家へ出かけた。使用人らはいつもの通り農作業や薪割りなどに忙しかった。
 家には、後から行くことになっているアルチナと祖母の二人だけが残っていた。ウンブの木の下には、二人のための老いぼれ馬二頭が繋がれていた。
 それから、もう一人、黒人のタナジア母さん、これが何もかも見ることになって、後でみんなに話して聞かせたんだ。
 祖母さんは台所でベイジュ――タピオカの菓子――を焼いていた、普段着のスカートだけのアルチナはベランダで新しい毛糸編みの上着の目を留めているところだった。
 いつものように、頭には真赤なバラを挿していたが、それが長い黒髪によく映えていた。娘は、前夜、踊ったりしゃべったりして楽しんだ際に覚えた唄を小声で口ずさんでいた。その唄というのは……よく覚えているが、こんな歌詞だった。なぜかって……その唄を創ったのは、ほかでもない、このおれ様だからだ……ほかの女のためにな。

  お前の耳もとで唄う男は
  唄いながら死ななきゃならん……
なぜなら、お前はここをあとにしたら、
もう唄うたいのことなんか忘れてしまう。
  そして、男が死んじまったあとになって、
だれかの亡骸を目にしたとき、
それとも、お前が再び踊ったとき、
男のことを思い出すだろう。
  おれの歌声はお前の耳もとで
忘れられた悲しみにむせび泣く
この世との別れのせいじゃなく……

 とつぜん唄うのをやめた。台所の方から罵り声に続いて、祖母さんがか細い、切れ切れの声で叫ぶのが聞こえたからだ――「くせもの!くせもの!」――それから、苦しげな呻き、「ああっ!ああっ!」――続いて、ドサッとものの倒れる音がした。
 マリア・アルチナは片手に編みかけの上着、もう一方に編棒を持ったまま、恐ろしさに立ちすくんでいた。まるで壁の石灰みたいに蒼白な顔で、息も止まり、床にくぎ付けになったように身動きもしなかった。聞き耳をたてて、微かな物音でも聴こうとした……。
 そして、他でもない、シッコンが入ってきた……シッコンだぞ、よく聞いたか。追い詰められた獣の目をして、火のような息を吐きながら……。
 近よってくるなり、引き倒す勢いで、娘を捕らえ、締め付け、腰を抱きしめ、両脚の間に自分の脚を押しこみ、押し倒そうとした。激しい息づかいで、猛り立ち、獣の本性むきだしの様で……小麦色の、しなやかな首筋に……噛みつくように口づけした……。
 娘は悲鳴を上げながら、必死で男を押し返し、顔に爪をたて、身をよじらせて抵抗した。おしまいには腕に噛みついた。
 痛みに唸り声を上げて男は、一瞬手を離した。その隙に娘は脱兎のごとく逃げ出した……。男はすぐさま掴まえようとしたが、落ちていた編み掛けの上着に拍車が引っかかって、倒れそうになり、遅れをとった。
 哀れな娘は台所を通るとき、服がしわくちゃに乱れ、白髪を血に染めた祖母が倒れているのを見た……。恐ろしさに我を忘れて、ウンブの木まで走り、老馬に飛び乗るなり、力いっぱい鞭をくれて丘を駆け下った……。
 しかし、ほどなく、振り向かなくても、馬で追ってくるシッコンがすぐ近くまで迫っているのを感じることができた……。
 追われながら、追いかけながら、二人は坂道を沼の方へ、一直線に駆け下りていった! マリア・アルチナは近道をしようとしたのか、それとも正気を失くし、危険さえも忘れてしまったのだろうか、老いぼれ馬に鞭をあてた。馬は坂を下ってきた勢いのまま、沼に飛びこんで耳まで沈み、必死にもがいて脚をばたつかせた。

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