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ニッケイ歌壇(486)=上妻博彦 選

      サンパウロ       武地 志津

白鵬と真っ向勝負の照富士堂々の寄りに金星上げる
逸ノ城、照富士との大熱戦沸きに沸きたり満員の客
白鵬は己が記録に捉われて変化紛いで稀勢里下ろす
一瞬を静もる満員会場の客ら失望の無言の抗議
舞の海のつね明白な解説に耳傾けて心安まる

  「評」毎場所の短歌による相撲解説、この様に三十一文字に詠み据えて見ると短歌のもつ日本国有の詩型が一段と浮かび上がるのが解かる。

      サンパウロ       遠藤  勇

朝夕の風は初秋を思わずに眞昼の風はまだ夏のもの
秋の陽は遅々遅々として沈み行く今日に未練がまだ有る如く
大雨に舗装道路は河となり街路樹倒れ車ペシャンコ
久々に豪雨来りて何も彼も押し流しつつ降りに降りたり
稲光轟音同時落雷に思わず首をすくめていたり

  「評」いよいよ秋冷の候といった肌ざわりの朝夕の風。下の句の据えが、現代短歌(日本)の匂ひする。一首目の『まだ夏のもの』次の『今日に……』面白い。三首以下少々調べが流れすぎはしまいか。

      サンパウロ       相部 聖花

師の卆寿祝いて歌う熟年(戦後の青年)の今もたぎれる愛国の情
蘭展の知らせを聞きて我が庭の蘭の蕾の伸びたるに気付く
自己流の蘭の栽培二〇年時季来てほころぶ花をいとしむ
雨に濡れ頭を垂れ咲くかきつばた蕾も見ぬ間に今朝開きたる
炒り胡麻を買わんとすればそのそばにごま塩も並ぶ結構な世なり

  「評」戦中戦後を生きて来た者には、決して苦難だけの時代であったとは思えない。現在でもたぎることの可能な情を持ち合せるからこそ、結構な世を有難く満喫出来るのだと頷いている。蘭のほころびも、頭を垂れ咲くかきつばたもしかり。

      カンベ         湯山  洋

ピーナツの塩炒り袋に缶ビール袋も缶も空に為し得ず
アメンドイン焼いて騒いだ雨の日の香りも子等も遠い昔に
アメンドイン植えて儲けた年もあり雨に祟られ損した年も
落花生名前の由来を植えて知る雌蕊が土まで伸びて実となる
落花生南京豆と母は言う南京豆には母が生きてる

  「評」大家族でも子供達が自ずと育った頃がやはり一番楽しい時代に思われる。農家でなくては知り得ない落花生の生態だが、南京から移住された作物であることも母に教ったことであった。

      アルトパラナ     白髭 ちよ

補聴器の耳の検査の厭わしさようやく終り蘇生の思い
補聴器の嵌め外しの煩わしく娘の手を借りてようやく覚ゆ
嵌めなければ慣れぬものと諭されて朝から嵌めて一日過ごす
嵌めぬより少しはましな補聴器のあまりの高価に呆れし吾は
大声で話す事なく娘も笑顔此れにしようと心に決める

  「評」補聴器も入歯も自分になじむまでは大変な人も多いらしいが、それを克復するには、やはり娘の協力が一番と。それにしても値段の方もと。

      バウルー       小坂 正光

出聖の其の都度長女はバス停に笑みを浮べて待ちているなり
帰り行く父母見送りてバス停に娘のエリカは手を振りている
二世歌手「見返り富士」を切せつと全国大会に熱唱なしぬ
終戦後七十年過ぐれど文化人は侵略などとう死語を言うなり
安倍総理祖国日本に誇り持ち歴史に遺る首相談話なせ

  「評」田舎から出聖する父をバス停に、そして帰りを送ってくれる。自身の親子の姿を客観的に表現する心が、三首目の『切せつ』と熱唱する二世歌手をも見のがさない。よって、社会批評の作品も自ずと生れる。

      グワルーリョス    長井エミ子

浅き春カンタレイラの山波の黙々として小雨にけぶる
ボンボンと歩道を叩く雨粒に飛び出す蛙ねぐら何処に
遠い空ねむり引き込むばく音のしじまの中に蝶のたゆとう
思い出に投網投ぐれば掛かりしはただ面白き事ばかりなり
平九郎おらぬ地球やイスラム国私は今日も厨房に入る

  「評」智に過ぎると叙情を欠くことになるようだ。一首、三首あたりに氏の感性が見えると思うのだが。五首目、筆者、迂闊にして『平九郎』と『イスラム国』となると思い浮かばない。『彦九郎』(髙山)を思ったりもするのだが。

      サンパウロ       坂上美代栄

フットボール贔屓のチーム吾になく豪快なシュートと珍技楽しむ
前線へ出過ぎたゴーレイロ、ネットへ行くボールを必死に追いかけ走る
監督は目をむき歯がみし天仰ぎ地団太ふんで失敗を嘆く
ゴールせし選手にとびつき抱きおうて倒れ重なるをはらはらし見る
監督の険しい顔が一瞬にし崩れ跳びはね誰彼を抱く
  「評」蹴球を、チームを見ると言うより、あのゴールを寄せ集めた映像の、ゴレイロの動き、シュートの技、監督の表情の大写しだけを見るのが、そして観覧席の顔々だけしか見ていない筆者には、フッチボールの面白さは解らないが短歌の三十一音にまとめる難しさを試みる努力は解る気がする。

『ゴーレイロ』はゴールキーパーをポルトガル語で発音したもの(Daniel Augusto Jr. /Ag. Corinthians)

『ゴーレイロ』はゴールキーパーをポルトガル語で発音したもの(Daniel Augusto Jr. /Ag. Corinthians)

      サンパウロ       上妻やす子

我が住まう古きアパートあちこちで修理の鎚音せわしくひびく
気まぐれに童謡CDかけて聞く小女のころの知らぬ哀しみ
生きて来し永さつくづく思いおり食後のあとの薬のむとき
ブラジル語の海にただよう我一人語学というを必みて思えり
歳の差は二十四歳思うことかたみに違う娘との生活

  「評」種々考えると頭が痛くなる思いだが、それを単純化して、他人に傳えるだけでも気が治まる。作品の優劣は別として、日本人はこの精神行為を一千年以上も続けて来た。少しづつコンピューターに蝕まれつつある、日本語であるけれども、歌詠みが一人でも多く生きのこれることが、日本人の証しでもあると思うのである。