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ごあいさつ

移民の日にあたって=ブラジル日本文化福祉協会会長 呉屋 春美

呉屋会長

呉屋会長

 1908年に日本移民がブラジルに移りきて、今年で107周年を迎えます。今日の日系社会が存在するのは私共の先輩方のご苦労の賜物であります。開拓先亡者の御霊に対して心より哀悼と感謝の意を表する次第であります。
 日系社会の先輩方は長いブラジル移民史の厳しい道のりを、唯ひたすらに一生懸命に歩いて来られました。日本人の「勤勉さ」「信用ができる」という評価を築き上げてこられたお陰により、現在私共はブラジルの地におきまして胸を張って生きていくことができます。
 現在の日系社会は確実に世代交代が進んでおり、三世、四世が活躍する時代となっております。農業分野のみならず、商業、工業、政治経済の分野等での幅広い分野に進出しており、ブラジル発展に大きく貢献しております。
 一方で、我々日系社会の存在意義と言えます正しい日本文化の理解や日本語教育面における衰えが表面化しているのが現状でございます。どのような形で先駆者たちが残された日本のルーツを若者に伝承し発展に繋げることが出来るでしょうか。重要で、現在の大きな課題でもあります。
 昨年、ブラジル日本文化福祉協会では「限りない可能性を有するブラジルと日本の交流」をテーマに第6回文協統合フォーラムが開催されました。同会には、サンパウロ州をはじめ、ベレン、ブラジリア、ベロ・オリゾンテなどの全伯各地から参加者が集い、意見交換の場が設けられました。
 意見交換では日系若者の正しい日本文化に対する認識度の薄さが感じられましたが、それはブラジル日系社会で育った者、また出稼ぎ子弟のどちらにも共通していました。私共はさらに正しい日本文化の普及の場を提供できるように考慮し、日系社会の活性化に務めなければならないということを痛感いたしました。
 またフォーラムでは昨年ブラジルで開催されたサッカーワールドカップのことが話題に上がりましたが、サンパウロ市では日本人訪問者支援委員会が設置された他、地方日系団体におきましても多くの方々が支援活動に積極的に携わりました。ワールドカップ終了後、深刻な事件・事故に巻き込まれたという報告は一つも受けておりません。改めて、推定160万人といわれる日系社会の結束力を伺わせる有意義なイベントでございました。
 今年は日伯外交樹立120周年の年であり、来年はリオデジャネイロ五輪を迎えます。両国に取りましては今まで以上に絆を強め、また成長を遂げるまたとない機会となります。改めて、両国の縁を築いてこられた先駆者の皆様に感謝を申し上げます。
 最後になりましたが、日系社会の皆様、ニッケイ新聞をご愛読の皆様のご健勝を祈念し、ブラジル日本移民107周年を迎えるにあたり、私の挨拶とさせていただきます。


日系人の幹部登用を=ブラジル日本商工会議所会頭 村田 俊典

村田会頭

村田会頭

 ブラジル日本移民の日を迎えるにあたり謹んでご挨拶を申し上げます。
 6月18日に笠戸丸で最初の移民の方々がサントス港に降り立ってから107年という歳月が流れる中、多くの喜びも苦しみも時代と共に人々の胸に刻まれ、そこには世代を超えて受け継がれてゆく大切なものがあります。商工会議所会頭として今日は将来に向かって私たちがどの様な努力を続けて行くべきかを考えます。
 私は、日本の企業の派遣社員として通算19年目のブラジル生活に入りました。ブラジルの研修生として右も左も分からずにいた頃、カンピーナスの日系人の皆様には大変お世話になりました。また、この間ブラジルのあらゆる場所で、日本人であることで色んな方々から良くしてもらいました。日本人の方なら、必ずどこかで経験のあることだと思います。
 これらのベースになっているのは日本移民の方々の歴史の積み上げである事は間違いありません。年月を超えて積み重ねて来た皆さんの努力と辛抱、日本人が持っている修養(=disciplina)の賜物だと思います。
 一方で日本側はどうでしょう? 日本で日系ブラジル人がどの位認められているでしょうか? 逆に日系ブラジル人であることで、日本人に受け入れて貰えなかった経験の方が多いのではないでしょうか。日本人の他を排除する気質の様なものが背景にあると思いますが、正直落差は激しいと感じます。
 この無知の罪とも言うべき落差を、年月をかけて無くしていく努力こそが会員企業の多くに日本企業を持つブラジル日本商工会議所に求められる努力だと思います。
 何と言っても人材の交流が必要です。今では多くの企業が日系ブラジル人を日本に派遣していますが、さらに多くの企業がこの取り組みに参加する必要があります。多くの日系ブラジル人を企業幹部に登用する事が必要です。
 リーマンショック後の経済情勢の変化もあり、日系ブラジル人のブラジル里帰りが加速しています。その方々の子息で日本の学校で勉強した若いバイリンガルの日系ブラジル人が増えています。この様な優秀な人材を雇用して行くことも我々の貢献の一つです。
 逆の動きも必要です。日本の若者達がブラジルを知り、ブラジルのパワーを日本に持ち帰る事です。今般、私たち商工会議所では筑波大学と経済交流促進、人材育成・活用を念頭に覚書を締結しました。小さな種ですが両国の更なる人材交流が図られることを願います。
 日伯修好通商航海条約120周年にあたる本年は、年初から多くの行事が各地で執り行なわれています。この様な事業に大使館や総領事館の皆様と共同で参加をしてゆくことも大切です。来年のリオオリンピック、サンパウロに於けるジャパンハウスの設置なども足元では大切な事業です。この様な地道な相互理解に向けた努力こそが、100年を超える移民の歴史を将来に向かって骨太にしてゆくと信じます。


リンスで痛感した初期移民の苦難=ブラジル日本都道府県人会連合会会長 本橋 幹久

本橋会長

本橋会長

 第1回移民船「笠戸丸」がサントス港埠頭に着岸した1908年6月18日より、今年で107年となります。ブラジル政府ルーラ大統領は、この日を「日本移民の日」(Dia Nacional da Imigração Japonesa)と、2005年7月25日の法令11.142号で制定しました。ちなみに日本政府総理府は、1966年にこの6月18日を「海外移住の日」と定めております。
 本来「移民」とは苦難が多く付きまとう大変な行動であると言えましょう。特に日本移民初期の人達は、想像しがたい大変な苦労を経験され、中には志半ばにしてブラジルの土となられた方々が多くおられます。
 実はこの移民初期に苦難がいかに多かったかをいみじくも物語っている事に、私は最近遭遇いたしました。
 親に連れられ家族と共に入植し、大人と一緒に開拓作業に励んだ思い出多き入植地、或いは生まれ育った自分の故郷である植民地を訪ねて巡る「移民のふるさと巡り」を、県連は主催し実施しております。その第43回目としてこの3月の終わりに、アルタ・パウリスタ、ノロエステ地域を巡りました。
 最後の訪問地リンスで「移民ふるさと巡り」では、地元の人達と一緒にその地の先没者への追悼の法要を行いました。その法要に供する「過去帳」を祭壇に運ぶ役を務めた時のことです。この地域の入植地ごとに纏められてある過去帳の第一頁をめくり、死亡年齢の欄を見た時、私は自分の目を疑うほど唖然と致しました。
 それは入植当初1922年の死亡者が記載されている頁なのですが、5歳未満の乳児、幼児の死亡が実に多い事です。法要の後改めてよく見ました。1922年には39人の死亡者が記載されており、その内訳は水子(死産)と思われるもの8人、1歳未満11人、1―5歳未満5人、5歳以上7人でした。
 つまり39人の内、水子も含めて5歳未満の乳児、幼児が24人、つまり8割近くも占めていることです。現在では地方の農村地域と云えども考えられない数字でしょう。入植当初の立地条件、マラリア病発生などの衛生環境、畑仕事以外に、炊事、洗濯、子供の世話など過重な労働を強いられる主婦、母親の健康状態などにより、これらの数字で示される悲惨な状況が「移民」の言葉の中には含まれているのでは無いでしょうか。
 県連は、サンパウロ市のイビラプエラ公園内に「日本移民 開拓先没者慰霊碑」を建立し、管理維持しております。これは当時「日本海外移住家族会」の会長田中龍夫衆議院議員、同会藤川辰雄事務局長の配慮、奔走や、和田周一郎県連第3代会長の精力的な募金活動により、先ず各入植地の墓地などに忘れ去られている無縁仏を弔うことを目的に、1975年に建立されました。
 その後、日本移民先没者をひろく慰霊する拠り所の意味からも、各県人会の過去帳を収めての6月18日の「日本移民開拓先没者慰霊追悼法要」を営み、日本移民の心の拠りどころと位置付けられましょう。
 そのため、母国日本からご来伯されます天皇陛下をはじめ皇族の方々、首相はじめとする各大臣、知事、国会議員などの高官、また無論民間の方々も等しく献花、礼拝して頂き、他にはあまり例を見ない「聖地」とでも言うべき所になっております。
 入植開拓初期の犠牲となられた方々に想いを馳せ、日本移民の心のより処、そして慰霊の献花、拝礼する聖地である、ことの重大さに鑑み、県連はこの慰霊碑の管理維持に、心してその任務を努めなければと、「日本移民の日」に際し想いをあらたに致す次第です。


移民107周年記念日に寄せて=サンパウロ日伯援護協会会長 菊地 義治

菊地会長

菊地会長

 今を遡ること107年前の1908年(明治41年)6月18日、笠戸丸に乗った最初の日本移民781人がここブラジル国のサントス港に上陸して107年の歳月が流れました。そして、今や、ブラジル国に於ける日系社会は150万人余りを擁する大きなコミュニティーを形成するまでになりました。この間の先達の皆様方の幾多のご労苦とご功績に対し、改めて感謝の念と深甚なる敬意を表したいと思います。
 この間、約1世紀余り、日本移民及びその子孫たちは農業分野での目覚しい貢献のみならず、其の後、工業、商業、政治、芸術文化、教育等々のあらゆる分野に於いて日本人特有の誠実さと勤勉さと不断の努力によってここブラジル社会の発展に大いに寄与し、今や、ブラジル社会にとって、なくてはならない存在として確固たる地位を築き上げております。
 そして、今年は日伯外交関係樹立120周年の年に当たり、日本政府が中心となってジャパンハウスの創設はじめ、各種の記念行事やイベントが両国に於いて開催されますが、これを契機にあらゆる分野に於ける日伯関係がさらに深化し、強化されることを願わずにはいられません。
 さて、サンパウロ日伯援護協会(援協)は1952年から始まった日本人戦後移住の最盛期を迎えて、サントス港に上陸する移住者たちの苦難を軽減する目的で、休息と宿泊の場を提供したいとの強い思いから1959年1月にサントスに『移民の家』が開設されたことに端を発しております。
 爾来、今日までの56年間、援協はブラジル日本移民の歴史とともに歩んでまいりました。今や、援協は五つの医療施設、七つの福祉介護施設、総職員数約2千人を擁する大きな団体に成長いたしました。その間、援協はブラジル政府公認の公益福祉団体として医療及び福祉分野に於いて高齢の日本人移民の方々は勿論のこと、経済的、社会的に恵まれない多くの人々に支援の手を差し伸べてまいりました。
 援協は今後も、創立の理念であります「社会的弱者の救済援護」の精神を忘れることなく、着実、誠実に実践し、名実ともに日系社会の中核団体として日系社会のみならず、ブラジル社会にも、しっかりと貢献していく所存であります。
 最後になりましたが開拓先亡者の方々の偉大なる功績は日系社会のみならず、ブラジル社会の中で未来永劫、生き続け、輝き続けるものと強く確信しております。


107 ANOS DE IMIGRAÇÃO JAPONESA AO BRASIL
“SOMOS FILHOS DE IMIGRANTES VENCEDORES”
Presidente da Aliança Cultural Brasil-Japão
Yokio Oshiro  

Presidente Oshiro

Presidente Oshiro

Quando se fala em imigração japonesa, nos leva certamente aos passageiros do Kasato-Maru que aportou em Santos no ano de 1908. Foram pioneiros que abriram as portas para a vinda de tantos outros nas décadas seguintes.
Também nos leva a nossos pais !
Eram provenientes de diversas províncias japonesas e da longínqua Ilha de Okinawa, como meu pai. Imigravam em busca de melhores oportunidades de vida do outro lado do mundo, em um país de línguas e costumes totalmente diferentes. Era uma verdadeira aventura. Só a viagem durava cerca de 50 dias em alto mar.
Os bravos japoneses eram destinados especialmente para suprir falta de mão de obra nos grandes cafezais, pois o Brasil passava por uma boa fase denominada época de ouro do café e foi por várias décadas o seu maior produtor mundial. Por aqui se podia ganhar muito dinheiro, diziam as propagandas da época. Mas, também, plantavam e colhiam de tudo que se podia desta terra fértil.
Trabalharam como colonos, meeiros, enfim proprietários. Foram anos de sacrifícios, trabalhos árduos de campo, enfrentaram severas discriminações, humilhações e sujeições. Mas os pioneiros japoneses eram unidos e solidários, ajudavam-se mùtuamente, eram disciplinados e trabalhadores, casaram, criaram seus filhos – os primeiros brasileirinhos de olhinhos puxados – dando-lhes educação e formação exemplar digno de seus ancestrais.
Passados 107 anos de longos caminhos percorridos, esses abnegados pioneiros deixaram gerações prontas para serem vencedores, tais quais foram eles. Seus descendentes ocupam hoje posições de destaque em todos os setores de atividade.
E a 6ª geração está chegando !
Seus legados são permanentes e todos nós deveremos continuar trilhando.
É o nosso compromisso !

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