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ドウラードス日本語モデル校=創立25周年を顧みて=校長 城田 志津子=(2)

 共栄の生徒と向き合う中で、共栄だけの日本語教育でよいのか、連合会マ州傘下の日本語学校がよくならなければ生徒も成長しない、ということを感じ始めました。連合会会長に地域の日系子弟が交流できる場を提案すると、会長は連合会主催として日本語学校行事の開催を快く引き受けて下さり、第一回児童絵画教室を開催し、次々に交流の機会を増やしていきました。

 地域に広がる日本語学校開校と交流の輪

 南マ州日伯文化連合会創立を機にドウラードス周辺の日本人会活動を把握することが出来るようになりました。1957年開校のナビライ校、61年開校のファチマ・ド・スール校、ノーヴァ・アンドラジーナ校の3校が一般の知るところとなり、各日本人会も子弟の日本語教育を真剣に考えるようになりました。その後、71年に共栄校、75年にドウラードス校、グロリア・デ・ドウラードス校が開校されると、翌年から連合会主催南マットグロッソ児童絵画教室を初め、児童お話大会、児童文化祭、児童体育交換会、教師研修会等を次々に開催し、各日本語学校の教師並びに生徒間の交流を深めていきました。
  
 日本語普及部の誕生

 80年、片山会長が急逝され、末兼達雄氏が会長を引き継がれました。会長はその後10年間、日本語教育、日系子弟の人材の育成に全力投球し、84年学生寮の建設、モデル校建設の資金調達のために日夜奔走され、現在の基盤を築いて下さいました。
 一方、私自身にも変化が起こりました。80年、主人にとっては26年、私にとっては24年振りの帰郷を果たして帰伯すると、隣接するラランジャ・リーマ日本人会から日本語学校開校に当り、学習希望者は大勢いるが教師確保が容易でないので、何とか協力して欲しいという依頼を受けました。
 私は地域の日本人会の皆さんが如何に子弟の日本語教育を望んでいらっしゃるか、痛切に感じておりましたので、この機運を大切にしなくてはならないと思い、金曜日の夜3時間、土曜日、午前3時間の授業を引き受けることにしました。
 8月、授業が始まると日ごとに生徒が増えていき、1カ月を過ぎる頃、5歳児から20歳と、年齢もばらばらですが、学習者数は56名になりました。その年は、9月に連合会の児童文化祭があり、「全員参加しよう。」を合言葉に、合唱「ふるさと」、「手のひらを太陽に」を発表し、10月に行われるラランジャ・リーマ日本人会の運動会には、取りあえず全員できる入場行進、ラジオ体操、組み立て体操、また低学年にはダンス「森の小人」を教え発表しました。
 12月、終業式には、共栄と同様に生徒全員、お話を発表して終わらせようという父兄の希望により、その準備に息つく間もない忙しさでしたが、上級生の殆どが日常会話が日本語で話せ、コロニアの教科書[日本語三・四]程度の読み書きができましので、共栄でも行っている授業法、つまり上級生が下級生に教科書の漢字を教えたり、短文つくりをみてあげたり、ダンスを教えたりしていました。
 後に卒業生たちがモデル校や嫁ぎ先の日本語学校を支えてくれたのは、共栄校を含め、このような上級生が沢山いましたし、幼い頃、日本語学校行事を通して体験した楽しい思い出が成人になって花開いたからではないでしょうか。

筆者の授業風景

筆者の授業風景

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