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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(31)

 翌年、野村農場はカフェー55万本、収穫量6万8千俵を達成、往年の模範農場の勇姿を回復した。そこで関係者多数を招き、感謝のためのシュラスコ会を開いた。その折、再建の経緯を報告中、牛草は感極まって絶句、その様が人々に強い感銘を与えた。開戦時、農場を去ってから23年が経っていた。
 以上の様な労苦が牛草を鍛え上げ、既述の(筆者が会った時の)元気さや帝大出とは思えぬ人柄になったのであろう。無論、農場防衛は、牛草一己の功ではない。同様の苦心を重ねた人々が多数居た筈である。
 野村農場は、その後も霜害、サビ病などとの戦いを続けた。1975年には、史上最大といわれる大霜害が、パラナ州全域を襲った。新聞は、州内のカフェー9億本が一本残らず黒焦げになった──と報道した。「大霜害ではなく大凍害だ」という声もあった。実際、パラナ州人の誰もが凍りつく様な衝撃であった。
 これで同州のカフェー産業は壊滅した。以後、州の農業の主作物は大豆、ミーリョへ転換して行った。野村農場は、この大凍害の時も、カフェー樹の再生を図った。農場には77万本のカフェー樹があったが、100%被害を受けた。内11万本は抜根して新しい苗を植えた。それ以外は、地上20~30センチ以上は枯れたが、その下と地下部分は生きていた。枯れた部分を切断、新芽を発芽させた。 

野村家の覚悟

 筆者が野村農場を訪問したのは2013年のことである。
 支配人の宇治田正樹さんは1960年の生まれで、東京農大を出、関東最大手(当時)の採卵養鶏農事会社の現場責任者として、数県で養鶏場経営に従事した。その後1987年に渡伯、野村農場に勤務、2007年暮れから代表者を務めているということであった。
 その話によると──―1980年代末からカフェーの採算が悪化、野村農場は、バンコ・ド・ブラジルに対する負債が雪だるま式に膨張した。何度も経営危機に直面した。その度に本社に梃入れして貰った。
 以後、経営を抜本的に改革した。カフェーは10分の1の規模へ縮小、代わりに大豆、ミーリョ、小麦を植えた。人員も縮小した。2011年、借金をやっと総て返済した。農場の広さは900アルケーレス余、約2200ヘクタールに減じた。第二農場の一部を売却したためである。
 バンコ・ド・ブラジルに対する負債が雪だるま式に……というのは、当時、ブラジル経済が大破局に突入していたことが影響した。このことは前章で記したが、ハイパー・インフレが発生、金利が狂騰、融資に頼って経営していた生産者(農業者、農産企業)は、苦しさにのたうち回った。
 その揚句、息絶え、累々と屍を晒した。宇治田さんは、その時の苦しさを言葉だけでなく身体で表現した。筆者には充分判った。同じ様な反応を数多く見てきたからである。
 日本の本社、野村合名も、よく頑張ったものである。野村家の当主は「京都の碧雲荘と野村農場は守り抜く」と覚悟のほどを洩らしたという。碧雲荘というのは、野村徳七が全盛時代に建築した別邸であるが、日本建築の粋を凝らした家屋と庭園から成っており、国の重要文化財に指定されている。
 筆者が野村農場を訪れた時は大豆価格が高騰していた。以後も好価格を維持している。ホッとひと息という処であろう。
 思うに、この農場の防衛の歴史は息詰まる程である。平穏であった時期は僅かでしかない。こうなると、歴史そのものが貴重な資産である。
 無論、日本移民が自営農となる足場の役割を果たしたという功績もあった。北パラナの各地の開発史に関する資料に目を通すと、誰某は野村農場出身という意味の文字がしばしば出てくる。

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