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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第10回=ブラジルの機密を暴露

暁星学園OB会で、昔を偲びながら勤労寮歌を合唱する皆さん

暁星学園OB会で、昔を偲びながら勤労寮歌を合唱する皆さん

 「岸本さんは教育者的だった」と多くの人が印象を証言している通り、岸本昂一は1939(昭和14)年、日本の帝国教育会から在外日本人教育功労者表彰(1941年、『ブラジルにおける邦人発展史』下巻、204頁)を受けるほど熱心な教育者として知られていた人物だった。
 その時選ばれたのは31人、安瀬盛次、上野米蔵、氏原彦馬ら早々たるメンバーであった。
 岸本は永住論者で、臣道聯盟のような再移住論者が多い勝ち組とは一線を画す。ただし日本への強い祖国愛を抱き、日本民族や文化への強い誇りをもった文章を書き、「ブラジルに役に立つ人材を育成するための日本語教育」という信念を貫いてきた。
 しかし、当時の負け組にはそれが気に入らなかった。アレルギーのように、その気配だけで排除する雰囲気があった。
 『移民70年史』(288頁)にパ紙年鑑(1951年)からの引用として《季刊曠野の星(暁皇学園校友会)》との記述があるのを見つけた。同史で唯一、岸本関連が触れられている箇所だ。隔月刊なのに季刊にされ、校友会機関紙だったのは戦前の話なのに、戦後もそうだと認識されていた。
 『70年史』のこの部分を担当したのは元パ紙編集幹部の清谷益次さんだ。出典であるパ紙年鑑を確認すると正確に書いてあったので、彼が暁〃皇〃学園と間違えて書き移したようだ。清谷さんは子供移民で独学によって見識を深めた努力型インテリであり、穏健な人物だ。だが編集幹部まで務めた役割上、先入観はあったかもしれない。
 『70年史』を読んでいくうちに、最も省かれているのは「戦中の記述」ではないか―と気付いた。編纂時期は軍事政権中であり、政府批判につながる記述はご法度だった。それゆえ『戦野』が書いたような戦中の事実に触れていない。
 『移民四十年史』(1949年、香山六郎編著)でも、つい数年前のことなのに戦中の話がまったくない。『80年史』は勝ち負け抗争について詳述しているが『曠野の星』には一行も触れず、戦中の出来事もわずかだ。最近出た『百年史』全5巻も戦中に関する記述は少ない…。
 岸本はそんなタブーに終戦直後から挑んでいたことになる。
 『ブラジル力行会四十年史』(帝国書院、1963年)には、中川権三郎が書いた一章がある。輪湖俊午郎、北原地価造らと並んで岸本のことも記され、力行会会員中では佐藤常蔵に並ぶ「ペンの人」として「双璧として重きをなす」(128頁)と高く評価した。中川は力行会の重鎮であると同時に「アリアンサ協同新聞」などの主幹を務めた言論人だ。
 岸本の国外追放裁判に関しても触れ、「著作中に刑務所生活を書いた一くだりに、ブラジルの機密を暴露するものがあるとの理由から、戦後二回に渉って投獄の憂目に逢った」と見ている。
 では〃ブラジルの機密を暴露〃とは何なのか。(つづく、深沢正雪記者)

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