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日伯外交120年周年と移住=両国側の思惑と条約締結=日清、日露戦争との関係は=1879年に最初の気運

「日本国及伯剌西爾合衆国間修好通商航海条約」(調印書、外務省外交史料館より)

「日本国及伯剌西爾合衆国間修好通商航海条約」(調印書、外務省外交史料館より)

 日本とブラジルは1895年11月5日パリで、曾禰荒助駐仏日本公使とガブリエル・アルメイダ(Gabriel de Toledo Piza e Almeida)駐仏ブラジル公使が「日伯修好通商航海条約」(「日本国及伯剌西爾合衆国間修好通商航海条約」)を調印して外交関係を樹立した。1897年2月に批准書交換が行われ、リオ州ペトロポリスに日本帝国公使館が設置され、8月には初代公使として珍田捨巳が着任し、正式な国交関係が始まった。日伯修好通商条約調印に臨んだ120年前とは、日伯にとってどんな時期だったか。そして、同条約と移民事業にはどんな関係があったのか。

曾禰荒助(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

曾禰荒助(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

 ブラジル帝国にとって大きな出来事は、英国からの圧力による「奴隷貿易の禁止」(1850年)だ。300年に渡って続いてきたものが、英国の圧力によって禁止され、以後、既に入っていた奴隷が高齢化する中で、1888年には奴隷制自体が禁止される流れとなる。それと共に帝政を支える基盤が弱まり、翌1889年には軍部クーデターにより、帝政廃止、共和制施行という流れだ。
 この奴隷貿易禁止と制度廃止を補う政策が、外国移民導入であり、1850年前後からその試行錯誤が始まり、1880年代から本格化する。
 この時、ブラジルはまず清国にジャセグアイ海軍少将(後の大将)を1879年に派遣し、天津において伯清通商航海条約を結んだ。《清国と条約締結を思い立つに至った動機は、奴隷売買禁止により著しく労働者の欠如を感じた結果、これを支那から誘入せんが為であった》(『ブラジル人国記』野田良治、博文館、1926年、327頁)。いわゆる「苦力」導入を図ろうとしたが、うまくいかなかった。

初代公使の珍田捨巳(「ブラジルに於ける日本人発展史」より)

初代公使の珍田捨巳(「ブラジルに於ける日本人発展史」より)

 実はその帰路に、少将一行は日本に3週間ほど立ち寄り、日本国外務省と接触した。その時、日本政府はブラジルとの修好通商条約を強く望んだが、清国との締結の帰路である手前、断ったようだ。日伯交渉の最初の気運だ。
 少将の残した自伝にはその時の交渉について《日本が他の諸国と締結したる条約とは全く独立にして、かつ別物たる一つの修好通商条約をブラジルと日本間において締結せんことを切望す》(同329頁)とあり、それまで欧米諸国との間に結ばされた不平等条約とは違う、平等なものを結び、それをもって他諸国との条約を修正することを日本側では当初熱望した。
 ただし、その後、日本政府の方針が《まずブラジルの方から条約締結を申し込ませる方針を執り、ブラジル外務省の考案は、まず欧州の若干国が日本と対等の条約を締結するのを待つ》(330頁)こととなり、流れてしまった。

白人優先だった伯国政府

 一方、明治政府開始以前、江戸幕府が最初に移民を送り出した先はハワイだった。1868年4月25日に出港した、いわゆる〃元年者〃だ。その年の9月8日に明治政府が発足する。
 いわゆる政府間協定による「官約移民」開始は1885年にハワイに送りだした945人で、ここからが日本政府の「移民送り出し政策」が本格化する。
 日本政府は1888年にメキシコと修好通商条約を結び、これが「日本として初の平等条約」となった。この年はブラジルには大きな節目だった。「奴隷制廃止」が宣言され、以後、外国人移民、特にイタリア移民が急増するからだ。
 翌1889年にはブラジル軍部がクーデターを起こし、それまでの帝政を廃止し、共和制宣言をした。ここからが近代国家ブラジルの始まりだ。
 共和制開始直後の1890年ブラジル憲法では「アジア人の入国禁止」条項があった。欧州人種を中心にいれることで、ブラジル国民のブランキアメント(白人化)を進める方針からで、アジア系は「国会の承認を得れば可能」との条件が付けられていた。
 当時、大量の移民を送り出していたイタリア政府は、自国民からの相次ぐ「奴隷待遇」批判に堪えかね1889年に一端送りだしを禁止した。
 その後イタリア移民は解禁されるが、不安定さをみたブラジル政府側にアジア移民の受け入れ熱望論が高まった。そこで1892年、日伯修好条約の締結交渉の準備段階として、支那および日本移民の自由入国を許可する法律が施行された。
 と同時に、ブラジル政府は移民業務監視の責任を日本政府に持たせ、外交官や領事を駐在させることを求めた。

1897年=幻の土佐丸移民

 日本側では日清戦争(1893~94年)が起きた。それに勝利した日本は下関講和条約を結んだが、1894年5月の三国干渉で大陸進出に関して影響力を後退させられた時期だった。
 この戦争勝利をテコにして、国際的地位を欧米列国と同列に置き、それまでの不平等条約を改正しようと日本政府は意気込んでいた。
 実際、この時期に日本政府は南米諸国と立て続けに通商航海条約を締結している。1895年3月20日に日ペルー通商航海条約締結、同年11月5日がブラジルだ。
 これに関して、興味深い指摘がある。《日清戦争(1894~95年)から日露戦争(1904~5年)に至るまで、南米で日本が新たに条約を締結したブラジル(1895年)、チリ(1897年)、アルゼンチン(1898年)の三国がともに軍艦購入の交渉相手だったことは、条約締結と海軍増強作がつながっていたのではないか、と指摘されている》『アルゼンチン日本人移民史』(2002年、戦前編、16頁、FANA、以下『亜国移民史』)。
 国交を結んだチリに集団移民は送られていないし、亜国へも自由渡航者やブラジル入植組転住者が中心だった。
 1897年8月、吉佐移民会社がプラード・ジョルドン商会との契約に従い、ブラジル移民船「土佐丸」を送り出すはずだったが、コーヒー国際価格暴落を理由に、土壇場でキャンセルされた。これを受け入れるために、日本政府は珍田捨己弁理公使を派遣し、同8月にわざわざペトロポリスに公使館を開設していたが空振りに終わった。以後、日伯関係は10年近い空白期に入る。
 この間、南米移民の嚆矢となったのはペルーで1899年に最初の移民が送られた。
 日清戦争に勝利したあと、日本の仮想敵国はロシアに絞られていた。世界に冠たる「ロシア艦隊」に打ち勝つためには、圧倒的に軍艦が足りない…。明治の人口過密や食糧確保問題に加え、そんな軍事的な背景と相まって、南米との国交は開かれていった。南米と日露戦争の隠れた関係だ。
 そして1908年、ようやく笠戸丸が到着し、現在の日系社会繁栄への道が開かれる。そんな前夜が日伯通商修好条約締結の頃だった。

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