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再燃するイタイプー疑惑=ダム建設から続く不審死=奇奇怪怪の南米政界裏面史か=パラグァイ 坂本邦雄

イタイプーダム(Foto: Alexandre Marchetti/Itaipu Binacional)

イタイプーダム(Foto: Alexandre Marchetti/Itaipu Binacional)

 ブラジルのオ・グローボ紙によれば、連邦検察総庁は巴伯イタイプー双国水力発電所に関わる古い疑惑について改めて捜査を始める運びだと報じられている。この問題の立件再起の話は、1979年の未だに解明されていないジョゼ・ジョビン外交官の怪死に原因するものである。

 故同外交官の令嬢リギア・ジョビン女史は、「いかなる理由か、イタイプー水力発電所の建設工事は、ドーバー海峡下の英仏ユーロトンネルの工事よりも9倍の鉄筋と20倍もの量のコンクリートを要した理不尽な工費計算になるのが大問題なのである」と切り捨てる。
 見たところ、ブラジルでの官公庁汚職の大捜査の勢いは単に現在の追及範囲に止まらず、条約相手国のパラグァイにも及ぶ過去凡そ40年に亘る両国歴代当事者の捜索に厳しい手が廻り、「二十世紀の大事業」と呼ばれるイタイプー水力発電所の〃皆して隠匿に努めた〃、実際の建設コストにまつわる秘話が徐々に世に明らかにされつつある傾向にある。
 ブラジル連邦検察総庁は、1973年に調印されたイタイプー水力発電所の国際条約が発効した6年後、工事最盛期中の1979年にジョゼ・ジョビン外交官が(1957?59年パ国駐在大使)リオ市のコスメ・ヴェーリョ(Cosme Velho)で誘拐され、変死した事件を覆う厚いマントの謎を真に解明せんとするものだ。

ジョゼ・ジョビンの不審な死

 リギア・ジョビン女史は、父君は死亡する一週間前にブラジリア市におけるジョアン・フィゲレイド大統領の就任式に出席し、その席上イタイプー水力発電所の建設工事施工に関わる数々の重要な汚職の機密資料を所持していて、それに基づく自著を執筆中で、近く出版の予定である事を話したと言う。
 なお、ジョゼ・ジョビン大使は1979年の死亡(事件)以前に、当時のジョアン・グラール大統領の特命で(1964年に)イタイプー発電タービンの買い付け問題の解決に何回かアスンシォン市を公式訪問している。
 しかし、3年後の1982年には故人がチェスのケースにしまっていたそれら一連の機密証拠書類がリギア・コロール・ジョビン未亡人の住居から何者かによって盗まれた事が判明した。
 多分これ等は秘密諜報機関の手で焼き捨てられたのではないかと云われる。

正義の声の衝撃

 現在、正に大問題の「ペトロロン」ことペトロブラス石油公社のメガ収賄事件の爆風の波は、暗黙の〃刑事免責〃のマントに覆われ、不問に付されて来たイタイプー水力発電所の古くからの汚職問題の掘り起こしにも影響し、更に連邦会計監査院の捜査の矛先は当のエレクトロブラス国営電力公社にも及ばんとしているのだ。
 イタイプー建設事業では普通の常識や良識では考えられない異常な犯罪的コスト計算が罷り通っていたのだとは、前述のリギア・ジョビン女史の主張である。
 恐らく、同双国企業のかつて身に覚えのある多くの関係責任者は今になって再燃したこの思わぬ「義の旋風」に戦々恐々としているに違いない。
 ちなみに、ジョアン・グラール研究所は昨年11月末にリオ市の地方検察庁に対しジョゼ・ジョビン大使の横死は他殺だった疑いが大きいと訴えている。
 当時のルイ・ドウラド捜査担当官は同大使の死は縊死(いし、首吊り)による自殺だったと断定したが、娘(弁護士)のリギア・ジョビン女史はその仮定に断然と反証した。
 ジョゼ・ジョビン氏はイタマラチーでの長い外務官僚キャリアの持ち主で、多くの国々で大使を務めた有能な外交官だった。
 当初話が進んでいた巴伯双国イタイプー水力発電所のソ連からのタービン購入計画が取り止めになり、代わりにドイツの多国籍シーメンス社の機器装備一切と切り替えられた経緯いきさつの裏にはジョビン大使の有力な貢献があったとされる。
 注記すべきは、グラール大統領は更迭になる少し前の1964年1月19日に、ミナス・ジェライスの「トレス・マリアス水力発電所」の落成式で、反共で知られたパラグァイのストロエスネル大統領と会見している。
 その直後にパラグァイ政府が発表した声明は、「巴伯双国大統領は、サルトス・デル・グアイラ(セッテケーダス)の天然資源たる無尽蔵の水力を活用し、パラナ河上に世界で前代未聞の大規模発電プラントの建設計画達成の目的をもって、当該経済、財政、技術、事業上の諸懸案事項の検討、解決を図り早急に双国水力発電所の建設協定を結ぶべく、直ちに両国合同特別委員会を設置する事で合意した」、と宣言した。
 グラールをクーデターで追い出した後任政権は、この誓約を全て白紙に戻した。

グラール大統領罷免と亡命後の死にも疑惑

ジョアン・グラール大統領(By Governo do Brasil [Public domain], via Wikimedia Commons)

ジョアン・グラール大統領(By Governo do Brasil <(Galeria de Presidentes> [Public domain], via Wikimedia Commons)

 ところが、これだけではなく、なぜか伯国新政権は1964年の6月にサルトス・デル・グアイラを占拠する為にパラグァイ領のプエルト・レナート港地域に軍隊を侵入させて来た。
 しかし奇妙なのは、サントドミンゴ国の治安回復の為にOAS(米州機構)の処置で、折りしも同国に派遣された平和部隊を構成するブラジル、アメリカやその他の中米諸国の軍隊と共にパラグァイの分遣隊も肩を並べて遠征していたのである。
 クーデターによる失脚後、全ての政治権力を剥奪されたグラールは、大半の忠実な側近達と共にウルグァイに亡命し、そこから本国、亜国やウルグァイに有った資産などの管理をしながら母国復帰に努めた。
 しかして、1973年には時の亜国ペロン大統領の助言でブエノスアイレス市に移るように招かれた。
 だが更に身の安全上の理由でグラールはブエノス都市圏のメルセデス市に転居、同地で1976年12月6日に、公式には心臓病で亡くなった。
 遺体は当時の軍政下で非難の声が強かったが、出生地の南大河州サンボルジャ市で多数の会葬者の参列の下に埋葬された。
 遺族、親族、多くの同志、政治家や識者は、正義の為に闘ったパラグァイの大友人ジョアン・グラールは、コンドル作戦の陰謀の犠牲になった以外の何物でもないと未だに疑っているのである。
 正に政治の世界は深遠で奇奇怪怪だと言わざるを得ない。

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