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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第26回=ブラジル初の日本人の記録発見!

1873年5月10日付コレイオ・パウリスターノ(bndigital.bn.br)

1873年5月10日付コレイオ・パウリスターノ(bndigital.bn.br)

 前節で紹介した《竹沢万次1873年説》情報を確認すべく、ブラジル国立デジタル図書館サイト(bndigital.bn.br)を検索すると、なんとコレイオ・パウリスターノ紙1873年5月10日付4面に、日本人軽業師を含むサーカス団の広告があるのを見つけた。
 《初公開、大きな梯子を使った超難易度のA Escada Japoneza(日本式階段芸)executados pelo appulaudido artista Jeronyno e o menino Joannito(絶賛を受ける芸人ジェロニモとジョアニット少年による)》とある。
 第23節に掲載した写真にある万次の足芸のような技のことではないか。万次の足の上に立った子供が、どんどん四角い箱を自分の足元に積んでいき、上に上に上がっていくような芸だろう。
 芸筋としては、まさに万次が得意とするもの。この〃ジェロニモ〃が万次最初のブラジル公演の芸名かもしれない。
 これは「ペレイラ兄弟サーカス団」の公演の一部で、場所はサンパウロ市ラルゴ・サンベンド、明治6(1873)年5月10日(土)夜8時からだ。当時のサーカス公演のメッカといえる場所。サンパウロ市の中心たる教会のまん前、華やかな情景が目に浮かぶようだ。そこで、なんと笠戸丸の35年前に、日本人として初めて軽業芸を披露していた。これは移民史を大きく塗り替える出来事だ。
 これが万次であれば、ヴェロニカさんがいうように「キアリニ・サーカス同行説には賛成できない。万次は日本人一座と共に南米にきた」という考え方も当てはまる。
 第9節から紹介している「キアリニ・サーカス同行説」なら万次の渡伯は1875年となり、その2年前にサンパウロ市公演では、つじつまが合わない。サツマ座の方がタイミングとしては近い。
 《ジェロニモとジョアニット少年》が万次とその息子でないとしても、誰か日本人軽業師が明治6年にサンパウロ市サンベント広場で公演していたことは確かだ。
 奇しくも日本では、福沢諭吉が『世界国名照覧』において、地理書で初めて「ブラジル」という国名を日本人に紹介した年だ。福沢諭吉もまさかその時に、すでに日本人が来て芸を披露していたとは、想像もできなかったに違いない。
 この連載の最初の方で紹介した「サツマ座」は1873(明治6)年1、2月にウルグアイで公演し、翌3月には亜国ブエノス・アイレス市の(旧)コロン劇場にも出演した。何度「Satsuma」で検索しても残念ながらブラジルのデジタル図書館サイトでは、今のところ引っかかるものはない。
 でも、同じ年の5月にサンパウロ市で日本人軽業師が公演しているということは、何らかの理由でサツマ座の一部が分かれて、ブラジル公演した可能性がある。
 そこで思い出したのが『アルゼンチン日本人移民史』前編20頁にあった次の記述だ。《「サツマ」座は、その後どうなったのだろうか? 文芸人でもあった亜国日報の社長江原武に「ラ・ハポネサ村の謎」という文章があり、<この一座はブエノス・アイレスで解散したと云う説もあり、後年ペペ・ポデスターの一座にいた大日向という役者は、当然さつま一座の残党と考えられるのである>と推理している》
 この説によればサツマ座はブエノス・アイレスで解散しており、その残党がサンパウロ市に流れてきて5月10日に公演した可能性がある。というか、そうでなければ、この時期にサンパウロ市で公演するのは無理だ。
 もし、サツマ座がブエノス・アイレスで解散しているのであれば、当時のブラジルの新聞にその広告がないことが納得できる。バラバラになって行動し、一部がサンパウロにやって来た。
 そう考えると、いろいろな点でつじつまがあってくる。(続く、深沢正雪記者)

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