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県連故郷巡り(北東伯編)=歴史の玉手箱=第7回=戦中に暴徒に襲われ避難

草木栽培に精を出す藤田十作(新聞「オ・ポーボ」紙1966年1月18日号より)

草木栽培に精を出す藤田十作(新聞「オ・ポーボ」紙1966年1月18日号より)

 ルジア説ではこの時にアマゾン下りをし、最初はベレンに住み着いた。おそらく1920年頃だろう。
 1922年頃に、友人の中国人に誘われてセアラ―に南下し、日本人が誰もいないフォルタレーザに居つき、近郊のプクリペにあるオタヴィオ・フロッター農場の菜園で働いた。そこで現地の娘コスマ・モレイラ(通称ネネン)と出会い、1926年2月に結婚、12月にルジアさんが生まれた。教会で式を挙げるために洗礼を受け、「フランシスコ・ギリェルメ・フジタ」と名付けられた。
 1927年にフォルタレーザ市セナ・マドゥレイラ街に土地を賃貸し、菜園を経営、子供が次々に生まれた。
 「父は死ぬまでスペイン語交じりのポルトガル語だった」。ルジアさんの話では、父十作は最初、野菜を作ってカロッサ(荷車)で市場に持って行って売り始め、花にも手を広げた。
 「父は勉強しろ、と口うるさく言った。なんでも祖父は父が18歳の時に亡くなり、自分は勉強できなくて苦労したから、子どもにはしっかり勉強させ、同じ苦労をさせたくないと言っていた。おかげで私は歯科医、次のエジマール(没)は医者で血液銀行『富士』の創立者。その次のフランシスコ(没)も歯科医、マリア・ジョゼは教師、ニザロウは建築技師、最後のジョアンも建築技師になった」。
 十作が単身で同市に乗り込んでから、一族はすでに約80人を数えるほどだという。日本人が他に誰もないこの町で、子どもをみな大学にやることは生半可なことではなかっただろう。最大の困難は戦争中に訪れた。
 「一番大変だったのは、1942年8月よ。今でも昨日のことのように覚えているわ。昼過ぎに、学校に行く準備をしていたら、近所の人たちが押し寄せてきて『敵国人の家を壊せ!』って騒ぎ始め、苦労して2年前に新築したばかりの家だったのよ。それを全部壊された。金目のものはみんな取られ、窓枠からドアまで外して持っていかれたわ」と憤る。
 1942年8月15日からの3日ほどの間に、ブラジルの商船がナタル沖でドイツ潜水艦に5隻も沈められた時だ。ナタルに近いフォルタレーザでも枢軸国側移民の商店や家が一斉に暴徒に襲われた。
 この時、サンパウロ市のセー広場でも20万人が集まって反枢軸国大集会が行われた。その直後の18日、今度はアマゾン河口のベレン沖で、ブラジル商船が同様に撃沈され、ベレン市民が暴動を起こして、日本移民らを中心に枢軸国側移民が、トメアスー移住地に強制隔離されたことは有名だ。
 「叔母さんが助けに来てくれて、セントロの親戚の家に連れて行ってくれた。ドイツ人の商店、イタリア人の靴屋とか、みんな壊された。私たち家族はこれですべてを失ったの。親戚の援助でゼロから仕事をやり直して…。大変な苦労だったわ」と生々しい証言だ。
 ルジアさんの記憶は残酷なまでに鮮明だ。「母はその時に身重で凄いショックを受けたけど、11月30日に生んだ。父は敵性国人だからといって、牢屋には入れられなかった。でも毎週、警察署に出頭して所在証明をする必要があった」。
 サンパウロ市やベレンは聞いていたが、フォルタレーザでもこのような被害を受けた日本人がいたことは、今回初めて聞く話だった。(つづく、深沢正雪記者)

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