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県連故郷巡り(北東伯編)=歴史の玉手箱=(第27回、最終回)=国内線で日語アナウンスの快挙

山中タツミさん

山中タツミさん

 空港に向かうバスを待つホテルのロビーで、一行の山中タツミさん(86、愛媛県)=サンパウロ州カンピーナス市在住=に今回の旅の感想を聞くと、「カピトン・フジタの別荘でやった、マンガの木の下でやった慰霊ミサが一番よかったね。感じが良かった。味わい深かった」という。
 タツミさんの夫は終戦時に陸軍少佐だった関係で戦後は仕事になかなか就けず苦労し、1957年にブラジルへ移住したという。夫は日本では薬剤師の資格を持っていたが、当地でもミナスの大学に通って資格をとり、1969年頃までアサイ移住地で薬局を14年間やっていたという。
 その後に出聖し、1970年から援協の厚生ホーム(ピラピチニングイ街時代)に寮母を5年ぐらいした。それを辞めてからペンソンを始めた。「サッカーのカズがうちに住んでいたんだよ。あの頃はヤンチャだったよ。兄のヤスさんもいた。来たばっかりの頃よ。朝ごはんはパンしか出さなかったから、ヤスさんから『御飯を出してくれよ。これじゃ、走れないよ』と文句言われたことあるよ」と笑う。
 「あの頃、一生懸命に練習していたよ。本当に有名になって、私も嬉しいよ」と懐かしそうな表情を浮かべた。
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機長の中原デニスさんと五十嵐美恵子さん

機長の中原デニスさんと五十嵐美恵子さん

 午後、一行はナタル国際空港から3機に分かれて、グアルーリョス国際空港に向かった。リオ経由のGOL機には、連載第4回で紹介した五十嵐美恵子さん(83、新潟県)の姿もあった。「サンパウロで一緒に住んでいる孫がGOLのバイロットをしていて、今回の帰りもリオからサンパウロまで彼が運転するのよ」と嬉しそうに教えてくれた彼女だ。
 日本育ちの孫、中原デニスさんはリオの空港で乗り換えを待っている間に、五十嵐さんの所に姿を現し、挨拶をしていった。一行が、彼が運転する飛行機に乗り込み、離陸して間もなく、ポ語、英語のアナウンスに続いて、突然、流ちょうな日本語が流れてきた。国内線で日本語のアナウンスなど、異例中の異例だろう。
 JALの直行便がなくなって以来、ブラジル発の国際線でも、日本語のアナウンスなどまず聞くことは無くなった。それが、リオ発の国内線で聞こえたのだ。事情を知っている機内の一行の中から「パラベインス!」という声が飛んだ。日本育ちの三世からの、おばあちゃんへの素晴らしいプレゼントだ。どことなく「移民の故郷巡り」らしいエピソードだ。
 一行は深夜11時にようやくグアルーリョス空港に到着。80歳代の参加者が多数を占めるなか、長時間の移動で疲労困憊する姿が見られ、辛そうだったが、深夜のリベルダーデ広場で一行は解散した。(終わり、深沢正雪記者)

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