ホーム | 日系社会ニュース | 追悼 沖真一君=東京農大同期の思い出=拓殖学科第3期同期生 大島正敬(まさたか、ミナス州カンブイ市在)

追悼 沖真一君=東京農大同期の思い出=拓殖学科第3期同期生 大島正敬(まさたか、ミナス州カンブイ市在)

沖眞一さん

沖眞一さん

 明治、大正と日本が海外進出するのと同じくして、東京農大も海外農場を北方、南方と開設し、学風も海外進出の気風の基礎を確立していた。
 これらは敗戦により全て失ったが、1956(昭和31)年に戦後の日本からの海外移住という国際的視野により、千葉三郎学長、杉野忠夫農学博士が主導し、東京農大に農学部拓殖学科が新設された。
 学舎は東京の焼け野原から千葉県茂原の航空隊跡に設立された畜産学科、林学科、拓殖学科の3学科のみであった。
 このような時期に、第三期生として沖真一君は広島県から、私は宮崎県からはやる気持ちで入学した。
 しかし、日本が復興するにつれ、各学科は東京の本校に吸収されて東京農大も第4期生からは本校入学となった。
 そのため三期生には後輩が出来ず、この鬱憤を先輩の一期生と二期生に向けてことあるごとに楯突きして、あげくは痛飲し、さらに地元のヤクザと一戦を交えたりと、およそ品の良い東京の本校学生にはあり得ない学生生活を送った。
 それゆえに今でもそのころの学友とは兄弟以上の付き合いが続いている。そんな中でも沖君は学究肌で熱帯作物研究室に入って勉強し、また部活は空手部で活躍していた。私は勉強嫌いで柔道部に入り、また寮が違うこともあり学生時代の付き合いは淡き水のような普通の友人であった。
 61年に移住後、アチバイアで独立し果樹、野菜、苺、バラと多角経営を目指していたが、諸般の事情によりサンパウロに移り、自営業として仕事をしてきた。
 彼と「真ちゃん」「島どん」と呼び合うようになったのは40歳後半で、互いに生活も安定しブラジル校友会の役員として運営の一端を担うようになってからのこと。
 月一回の役員会の後は何人かでカラオケに行き、時には午前様で帰宅もあり、真ちゃんは必ず妻の和子(かずこ)さんに「これさえあれば怒られない」と寿司折りを持って帰っていた。「和子さんが嫁としてサントスに着いたときは、約束どおりバラの花束を持って迎えに行った」と言うが、本当に持って行ったかどうか、和子さんに聞きそびれてしまった。
 そんな和子さんを18年前に亡くし、そのまま再婚もせずに今日に至った。25年前に肝硬変で後二年の命と宣告されたことがあった。我々もびっくりして念のために日本に行かせて再診してもらったところ、それ程の悪性ではないと言われて一安心。
 その後、健康も回復し、少しずつ酒も飲めるようになっていった。「お前には香典の前渡しをした」というと、「それはもう時効だ」となんともいえない良い顔になって笑った姿を思い出す。
 ブラジル農大校友会会長として、12年に母校より大沢理事長、三好(みよし)校友会長、豊原(とよはら)副学長を迎えてパンアメリカン交友大会を開催、15年には母校からの高野学長、志和知(しわち)国際協力センター長の臨席のもと念願の農大卒業生移住100年誌「堅き絆」の出版記念式を挙行することが出来た。
 また仕事もしながら農業、植物についての豊富な知識と人脈を生かして博研副会長、山本喜誉志賞選考委員そして桜博士としてなど多方面な活躍をしてきた。実際どこを歩いても知った顔に出会う顔の広い真ちゃんであった。
 去年初め体調の異変をおぼえ、10月に大腸の手術を受けた。農大会長職も後1年頑張ると言っていたが肝臓に転移して、結局5月22日子供たちに見守られての旅立ちになってしまった。
 拓殖第3期43名のうち14名がブラジルに移住し、その後、帰国者や沖君を含め鬼籍に入った者も多く現在残り五名のみ。大学入学から58年間の永い付き合いなので、想い出を書き始めると様々なことが脳裏に蘇ってきて懐かしくて涙を禁じえない。
 妻の和子さんを亡くしてからの年月の間に体力的にも精神的にもきついことが多かっただろうに、よく頑張ってくれたと思う。
 そんな中で君なりにやりたいことをやり通してきたことでもあり、人生に悔いなしと大威張りで旅立って行ったと確信している。
 ただ一つ悔いがあるとすれば、今年9月23日に東京農大本校で行われる農大創立125年世界校友大会に、ブラジル校友会支部長として参加できなかったことではないかと思っている。
 永い間ご苦労様、そしてありがとう。心よりご冥福を祈ります。(註=この文章は11日付け「ぷらっさ」欄に掲載されたが、重大な間違いがあった。関係者にお詫びの上、再掲載する)

image_print

こちらの記事もどうぞ