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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(9)

第3章  大和魂

左が池田アントニオ、右が平兵譽(へいたか)

左が池田アントニオ、右が平兵譽(へいたか)

 戦争の気配がこくなると、地方での話題はもっぱら戦さに関するものになった。一九四〇年に第二次世界大戦が起こり、世界は二つに分かれた。
 日本、ドイツ、イタリアによって構成されて枢軸国側に対するアメリカを中心に据えた連合国側である。ブラジル在住の日本人は集団で住んだり、集会を開いたり、日本語で話したり、あるいは政治的な活動を行ったりすることを禁じられた。これら総ては兵譽が関わってきたことだった。兵譽はブラジルに定住する夢を捨てた。 
 臣道連盟の結成よりずっと以前に、兵譽は「大政翼賛同志会」という大仰な名称の非合法結社をつくった。日下部雄悟、ゴトウ・トシロウ、安保キタロウ、杉俣政次郎等と、兵譽はガルサ市のバーラ・グランデ農場で集会をよく開いていたのだ。その集会では、日本移住者をどのような形で帰国させるかについての討議がなされていたのだが、けっきょく、合意には到らなかった。
 兵譽は政党を創って政治的に動きまわり、ブラジル政府の賛同のもと農村地帯で暮らす不満分子を公に日本へ帰国させることを望んでいた。また同会はブラジル政府に対し、日本人が自由に意見開陳をでき、人間として尊厳ある生活ができることを主張していた。
 会の何人かは、例えば日下部やゴトウ・トシロウなどは、兵譽が唱える集団での日本帰国には反対意見を述べていた。サンパウロ州、パラナ州、アマゾン州などに点在している人々を同時に召集し、一箇所に集めるのは不可能だというのだった。自分たちの結社がたとえ一家族ずつでも、日本に帰還させることができればそれだけでも大きな勝利だと主張していたが、兵譽は大衆の支持がなければ、活動は弱まるといって譲らなかった。
 時間をかけて徐々に家族を日本へ帰還させるゲリラ式の戦いを行っても、どうにもならないのだと言いつづけた。兵譽はブラジル政府に対する拒絶を多数の人と異口同音に叫びたかったのだ。そのような意見の食い違いはあったが、彼らは団結していた。
 愛国心の強い日本人移住者のもう一つの悩みは同胞一丸となって銃を取り、状況しだいでは、天皇陛下のために死ぬことができないことだった。
 侍は決して恐怖心を見せてはいけなかった。そして、兵譽は侍の魂を持ち合わせていた。ぱりっとした西洋服に身を包んだ侍であった。
     ☆    
 息子の兵譽は、奥地を巡回しながら、日本人移住者に帰国を説得させるという執念に燃えていた。そのような奥地への旅で兵譽は池田アントニオと知り合ったのである。彼もまた兵譽と同じように身嗜みのいい若者だった。同時に池田は日系社会の有名人でもあった。よく磨きこまれた膝まである革の長靴を履き、丸い眼鏡をかけ、金時計の鎖をいつも腰にぶら下げていた。
 二五歳のこの若者は射撃の名手としてもしられていたが、後に臣道連盟に加入したのである。そして、当時、日本人から「負け組」と呼ばれていた連合軍の勝利を信じる者たちの殺傷にかり出されたのだった。
 兵譽と池田は、二人の出会いを記念する意味で写真館でいっしょに写真を撮った。漢字で書かれた張り紙を真ん中に二人がぞれぞれ椅子に腰かけている。その張り紙には新政権の弾圧に抗議する下記の文面がしるされている。
 「ブラジル在住の皇国の民、旧弊を無くし、帝国主義を確立しなければ後の世まで憂い残すであろう。深刻な事態に立ち向かっている我々は国の為にこの聖なる戦いに身を捧げることにした。皇国の礎となり、多くの同胞の魂に捧げる」
 文面の意味を理解するのは多少困難をともなうが、その頃の活動家が、いかにその意志を伝えることに苦心していたかを物語っているといえよう。ただ、確かなのは、母国を守るためには死をも辞さない固い決心をもっていたことである。

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