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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(27)

 組合の墓地は十字架で埋まり、手狭になったほどである。居城半藏の両親を含めた小数の者だけが生き残り、そこで築きあげた少しばかりの財産を投げ出して、移民収容所に助けを求めたのだった。地獄から抜け出した家族は浮浪者のような格好でやっとのことで移民収容所にたどり着いたという。
 居城半藏の一家はバストスに送られた。バストスでは兵譽と半藏は、大政翼賛会の活動中に再会した。なお、アンドラジーナの組合が活動した地帯は、トレス・イルモンス水力発電所造成のために水没していた。
 一九四七年には世界の脅威は黄色から別な色に変わっていた。ソビエト連邦が台頭してきたことで、「赤い脅威」となったのだ。共産国のソビエトはヨーロッパの国々と敵対し、東寄りの国々を自国に統合しようとしたのである。
 同年の一〇月に、ブラジルの大統領エウリコ・ガスパル・ヅトラ将軍は、ソビエトと国交を断絶した。新政権の元陸軍大臣だったヅトラは三〇年代に共産運動の抑圧を指揮した人物である。
 八年の刑が満期となる一九五一年以前に、拘置所から出ることを予想して、兵譽は外で自由の身になってからの生活を夢見るようになっていた。再び、日本へ帰国することについて語っていたが、その前に旅費を捻出するために働かなければならなかった。
 同じ監獄仲間の何人かは、もう一度農業に従事することをかんがえていたが、兵譽は都市の人間である。発展していく町の様子を見届けたかった。再びスーツ姿で、シボレーを乗り回している自分を想像するのだった。兵譽は自分の信念を貫くことを考えていた。日本が戦争に負けことを、そして、彼は故郷の復興に立ち会わなければいけないということを自覚していたのだ。
 少しずつ、裁判所は日本人に対する訴訟を取り下げていた。政治・社会治安局も同様の処置をとっていた。兵譽の仲間も次々に釈放され、サンパウロ州の奥地の家族のもとに帰っていった。最後には、最も長い刑をいい渡された三人だけが残った。
 一九四八年一二月一八日付けで、サンパウロ州の安全保障局は次のような電文を受け取った
    ◎   
 大統領の命令を告知する。この裁判所(最高軍事裁判所)は一二月一〇日の会議において、八年の禁固刑に処された日下部雄悟、平兵譽並びに杉俣政次郎の刑の再審議を行い、恩赦による刑の消滅を認める事を決定した。
    ◎    
 電報はSTMの軍警部長、アダウト・エスメラルド陸軍少佐によって署名されたもので、拘置所にはその四日後にコピーが届いた。こうして、三人は一九四九年初頭に出所した。互いに別れを惜しみ、その後はそれぞれの別の道を歩んだのである。

第9章  あにさん蒸発

 イツー市で逮捕されて以来、兵譽は六年という長い期間囚人生活を送ったわけだが、最初はとにかく、田舎の家族のもとに帰ることであった。
 藤子と重男夫妻三人の子といっしょにまだツパンに住んでいた。涙もろい妹の藤子は世界の果てから帰還したかのような兄をみて、泣きに泣いた。
 兄は痩せこけて歯を何本か失っていた。低い声で口数も少なく、笑顔もほとんど見せなかった者には、歯をなくしたことはさして気にならなかったようではあるが。
 藤子は兵譽に父親の死について語った。それから秋雄が家を出て、そのまま何の音沙汰がないことも話した。母親と兄弟の英新、英三はサンパウロ市の東部にあるイタケーラの農園に住み、もう長いこと音信不通だということも話してくれた。母親の幾千代は息子を訪問するために拘置所に一度行ったが、息子がイーリャ・グランデの拘置所に移されたことを知り、再び無駄足を踏んだのだった。
 家族がばらばらに暮らしている現状を前に、兵譽は妹に日本への帰国という以前からの夢を語り、妹に別れを告げみんなの前からまた姿を消した。
 末っ子の英新も自分の人生の道を見出したいという兄に影響されてか、イタケーラの農園を後にして、ピニェイロス区の洗濯屋に住み込みで働くようになっていた。慎重で、礼儀正しく仕事熱心な英新は、客からも好かれ、多くの友達もできた。映画を見るのが好きだった。

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